さいぞうじ
才蔵寺

  岩嶽山明王院・才蔵寺は真言宗で、福島正則の家臣・可児才蔵を祀るお寺です。
才蔵は宝蔵院流十字槍の達人で関ヶ原の戦いなどで数々の武功をたて、槍の才蔵、笹の才蔵と称されました。晩年は仏門に入り人々の脳病平癒の治療に専念し栄養の多い味噌造りを勧めたり、城下の貧しい人々に味噌を配って生活を助けるなどの社会奉仕を行なったと伝えられています。
才蔵寺境内には福島氏が改易になり戦いになったときに備え食料の味噌を集めたという故事にちなんだミソ地蔵があります。この地蔵の頭に味噌を乗せ祈願すると合格が叶うそうです(受験シーズンには受験生で賑わうそうです)。当時知らなかったこともありますが、2人の息子たちを連れて来なかったな〜と。
資料は設置の説明板などを参考にしました 05.05.13裕・記編集

’05.04.16.撮影
広島市東区東山町1-11

’05.04.16.撮影
可児才蔵像と本堂

’05.04.16.撮影
本堂 さすり地蔵

’05.04.16.撮影
ミソ地蔵と味噌

’05.04.16.撮影
可児才蔵(かにさいぞう) 別稱:藤原吉長
(1553〜1613)
  才蔵像は関ヶ原合戦図屏風(彦根美術館蔵)そのた資料を参考として再現した青年期は戦国武将として活躍、晩年は仏門に入りこの地に開山庶民の諸救済に専念その徳は後世に語り伝えられ、現代では学業をたすけるミソ地蔵として親しまれている。ここに才蔵尊像を建立して英徳を偲び併せその遺徳を仰ぐ。
2004年11月24日 才蔵寺住職 笠継智光 合掌
史跡 かにさいざう碑
  当山開基可兒才蔵藤原吉長は天文22(1553)年豊臣が正に天下に臨まんとする戦国の世尾張国葉栗郡楽典郷に生を享け永禄11年15歳の時前田利家の老臣奥村助左衛門が烏帽子親となり加冠して松田太郎左衛門に仕えたが後に福島正則の臣となり慶長5年正則が関ヶ原の功により芸州広島藩主に移封の時来住して藩の槍術指南となり併せて軍学を講じた才蔵は智謀武勇衆に優れ特に槍術は世に吉長十字槍といわれ又の名を槍の才蔵とたたえられた程の名人であった関ヶ原合戦の時は常に鎧の背に笹を挿して居て敵の首級をあげる毎に笹を挿して目標にしたので徳川家康から笹の才蔵の呼名を貰い武名愈々世に現れた。才蔵は豪勇の一面智徳を兼ね備え信仰に厚く恭倹実直の武将であった武道初心集に正則芸備両国の士共残らず才蔵が心の如く致して欲しきもの哉それにては何事もなるにと云われけりとある以ってその人となりを知るにあたろ晩年は才入と号し仏門に入り済生を脳病平癒の医方に専念したと伝えられ死せんとするや(吾れ死せばこの地に埋葬して墓石を建てよ死後三日内に墓背に竹が生ずるであろう首より上を病む者はその竹の葉により利益を願えば必ず治癒を得さしめん)と遺言して慶長18(1613)年11月24日60歳で遂げた。はたして墓背に竹が生じる霊徳八方に伝わりこの竹の葉によって脳病全快の御利益を得たものが数知れない今尚この竹を才蔵竹と云い青々と茂り才蔵の好物であったといわれる味噌を供えて祈願囘向するもの跡を絶えずこの墓所は参勤交代の国道才蔵峠に接した要路であった往来の人心ある武士は墓前にて馬を下り水を供え花を手向けたという、才蔵寺は才蔵所有の竹葉軒と号する山荘の跡である、境内は、広島城と相対する城跡にあり往時東の松山といわれ群生する女松林は奇観なり。
真言宗岩嶽山明王院才蔵寺 石井良道・識 昭和33( 1958)年11月24日開基三百五十年記念之掲



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