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| 海田恵比須神社由来記 |
日本の街道が整備されたのは、駅制と同様に大化の改新(645年)の時である。その時太宰府までの山陽道を大路(おおじ)、東海道、東山道を中路(ちゅうじ)それ以外を小路(しょうじ)と定めた。
当時、海田は包浦と称し、後に開田と呼ばれるようになる。安元2(1176)年開田荘として文献に登場する。瀬野川の渓口集落であった開田は、更に海に面して土地が開かれ海田と呼ばれるようになった。
海田は古くから交通の要地であり、西条四日市と廿日市と並んで『市(いち)』が開かれ海田市と呼ばれ、今日の安芸郡の政治経済の中心地として発展した。この市と海に面しているところから恵比須信仰が生じてきた。
元来、恵比須は夷と書き、古くは異民族の通称であり、異郷からの来臨による幸い、つまり日本の場合は四辺が海であることから、海からの出現ないしは漂着した神という信仰が強い。したがって漁村では漂流物を神体にしている場合もある。時代とともに生業を守り財福をもたらす神として中性以降、七福神の一つに数えられ大黒とともに招福神の代表となり、農民や商人の進行を集めていった。
この祭礼は旧暦十月二十日(明治以降新暦では十一月二十日)に行なわれ、この祭礼を意味する胡子講は同業者もしくは同地区が商売繁盛を祈る神人共食の宴を持つ集まりであったが、近世中期に入ると祭礼を通じ共同大売出しを伴う行事となり、多くの人々を集めるようになった。
江戸期、広島では藩令によって参拝時刻を戌(いぬ)の刻(午後8時)までと制限したこともあるくらい盛んであった。通常は二十日を入れて四日間であった。この他に旧暦三月二十日にこと祭り(ことこと祭り)という歳時の祭りがあった。これは一名事々祭りと呼ばれ、平穏に事がなることを祈って行われた。おそらくこれは春を迎えて農業の鍬入れ漁業の本格的な出魚などの無事を祈ったものであろう。
さて、江戸幕府は三代将軍家光の時、五街道と脇街道を設置した。五街道とは江戸を起点とした重要街道で東海道や中仙道などとし、山陽道は脇街道となった。この街道は当時は西国街道または西国往還と呼ばれ、大阪から下関まで道幅二間半(約4.5m)と定められ整備された。
これらのことは、寛永10(1633)年幕府巡視使の巡視を契機としたが寛永12(1635)年参勤交代制の確立のためにも重要な街道であった。その時は、海田市は西条四日市と広島城下を結ぶ宿駅人馬継立所となり、参勤交代大名・長崎奉行・幕府代官等の往来あるいは天下り(幕府公的文書状や荷物の運送)の拠点として重要な所となった。元禄12(1699)年熊野神社西側に本陣、高札場、問屋場、旅館食事処、小売商、各種職人の仕事場など、俗にいう宿場町としての体裁が完成する。
これに先だち、延宝2(1674)年海田市住民は恵比須神社を勧請していた。しかし享保14(1729)年家事で焼失。宝暦11(1762)年再建。海田市はこの神社を中心として、上市・中市・下市の町名が出来るなど多くの人々の寄り処となって、今日に至っているが、昔日の面影はない。海田市がかって如何に重要な地理にあったかまた恵比須神社の祭礼が如何に華やかであったかを風化させないためにここに謹んで由来を記すものである。 |
| 神社前の説明板は、単に海田恵比寿神社の由来だけではなく、海田の歴史を紐解く詳しい解説となっていました、海田が開田からきた事をはじめて知りました、何度となくこの前を通っているのに立ち止まって読むこともなかったのです。 |
| 05.03.22裕・記編集 |
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