河原町地蔵尊
  浅野藩(1619-1871)の時代の文政5(1822)年10月に発行された飯田篤老著「知新集」によれば、竹の鼻小路より西に出て南へ下った所に鎮座されていたこの地蔵尊の所傳が次のように記されている。『享保2(1717)年頃に中島新町の炭蔵の内に居た井口惣左衛門と思われる人が、この村に移る時に持って来て村人たちが堂を建てて安置したものであるが、宝暦年間(1751-1763)の頃、元の中島新町にかえそうとして両人舁ぎ上げようとしたが上がらず、後へ戻せば上がるので人々は奇異に思い結局元の堂に戻しました。以来この佛像を火除けの守護と称し崇敬してきました。というのはこの辺りで火災が起ころうとすると霊告があり火災を免れてきたと伝えられているからです。
地蔵堂は明治の初め頃河原町61番地(現在の河原町5番12号付近)より現在地に移り境内一反十七歩余(317坪、1050u)に地蔵堂が建てられました。大正9(1920)年より被爆まで境内の一角に広島市の公設小売市場が開かれ附近の商店を含め終日人出に賑ったものです。
昭和20(1945)年8月6日原子爆弾により被災し焼跡より石佛像二体と石燈籠一基を掘出し仮堂を建てて復興しました。戦後の区画整理で敷地は686u(207坪)となりました。昭和25(1950)年に新しく本尊を刻み、昭和52(1977)年に本堂を改築しました。
一説には近くにあった竹の鼻の刑場の刑死者を弔ったとも云われていますが、毎年地蔵盆近くに行われる夏季大祭は原爆で全滅した数多くの河原町民の冥福を祈るものであり、祭りとしては大いに賑っています。
  中区の資料を見ていてこの河原町地蔵尊はもともと三体が鎮座されていたが、原爆にあって真中の本尊に当たる地蔵尊を見つけることができなかったということを知っていたのですが、交流ウォーク探検隊で訪ねた今(2008年6月)回はじめて河原町のお地蔵さまたちにお会いしました。
08.08.14追記    08.08.08裕・記編集

’08.06.07撮影
広島市中区河原町1-19

’08.06.07撮影

’08.06.07撮影
二体は被爆したお地蔵様で、本尊に当たる地蔵尊は見つけることができず新しくお迎えしたお地蔵様

’08.06.07撮影











被爆後の焼跡から掘り出された石燈籠 嘉永七年=1854年



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