正光寺
  常照山 正光寺は、浄土真宗本願寺派のお寺です。
知新集によると、『正光寺の開基は僧・了知(毛利家の家臣・何某嶺綱といい、元亀・天正のころ織田信長が10余年におよぶ摂津国石山本願寺と闘っていた時本願寺より毛利氏に救いを求めたその時嶺綱加勢の一人として軍功があった、正綱ともいわれたが、氏姓詳らかでない:元和8年=1622年没)で、正綱の正の字をとって正光寺と號すと過去帳に記述がある。(嶺綱は後に発心して)高田郡吉田村に草庵を結び法名を了知とした、毛利氏の広島開発の時当地に来てはじめ東西四十間南北三十間の寺地を賜わったが、福島正則の時に寺地が(狭く)改められた。・・・・』とあります。
資料をみると、無数の亀裂が入った地蔵尊、破損した部分は補修されている、他に(被爆した)墓石などが記載されています。
爆心地から≒1140m    被爆当時町名は石見屋町
平和記念公園の原爆供養塔根際に設置されている「原爆供養塔・案内板」を読むと『昭和49(1974)年境内で発掘された遺骨を(原爆供養塔に)納骨する』とあります。
 知新集にも正光寺沼田郡廣島石見屋町にありと記述してあるので、古くからの地名だったのでしょうが、戦後の町名変更で幟町の一部になったことは被爆関係の資料をみるまで知らなかったのですわたしは。資料をみたとき、被爆した地蔵尊の画像をみて訪ねてみなくてはと思っていたのです。
資料にある地蔵尊の画像は徳榮寺と入れ替わっていましたが、知新集を読んだとき「往古より西本山末寺にして徳榮寺又同派なりし時、かわるがわる觸頭(寺社奉行の命を末寺に伝える寺)をつとめし寺なりしを寛延三(1750)年東方に属し・・・」と記述してあり、徳榮寺との関わりが浄土真宗本願寺派と大谷派のはざまにあったようですが昔から縁があったようです。
 08.05.11裕・記編集

’08.03.20撮影
広島市中区幟町8-3

’07.10.10撮影

’08.03.20撮影

’08.03.20撮影
被爆した石造地蔵菩薩坐像 (亡くなった方々の年代が台座に刻まれています、その中の1つ)正徳六(丙)申(1716年)

’08.03.20撮影
被爆の影響で大きくクラック(ひび割れ)が入った墓石 大正十四(1925)年七月建之
ふれがしら
触頭
(觸頭)
1)室町時代、京都の町組のうち、上京一三町組を親町、他を枝町とした、親町のこと。奉行の命令を枝町に伝達した。地方の町では、一町ごとに三人を選んで、触流(ふれながし)という月行事を定めた。
2)江戸時代、寺院・神社のなかから選定され、寺社奉行から出る命令の伝達や、寺社から出る訴訟の取り次ぎにあたった神社・寺院。



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