海田町・ふるさと館
  海田町(国策の町村合併により広島市と合併する事になるのでしょうが※1)に“ふるさと館”という郷土資料館がある事は前から知っていたのですが行った事はありませんでした、このふるさと館の裏山に当る日浦山の事を聞いて登ってみる為の資料があるかも知れないと思ったからでした(立派なパンフレットを頂きました)。
資料館としては一般的なものと思いましたが、海田町が綿の産地で、葡萄の産地であった事をスイッチを押して観た『海田物語劇場』という映像で知りました。あの織田幹雄氏の出身地なので、僅かではあるのですが遺品が展示されています、図書コーナーもあり、そこで“ヒロシマの碑”という本を見つけ海田町民ではなくても貸出せるという事で借りました。(私が知らなかっただけなのかもしれませんが)『歴史講演会』なども開催されており文化発信基地の機能をもっているようです。
ふるさと館の裏手は公園として整備されており、大クスがあり、被爆50周年記念碑の横に移設されたトーチカがあったり、復元された竪穴住居、復元埴輪等もありますが・・
2004(平成16)年8月織田幹雄生誕100年展を記念した「織田幹雄展」が開かれ金メダルが展示されるので行ってみました。アムステルダム五輪で獲得した金メダルは現在は東京・秩父宮記念スポーツ博物館に保管してあり、五輪後に織田氏が帰郷して以来、76年ぶりとなる「里帰り」を果たしたということだそうです。
04.09.06追記   03.02.09裕・記編集

03.02.07撮影

03.02.07撮影

03.02.07撮影

03.02.07撮影
ふるさと館 裏手よりふるさと館をみる ふるさと館1F展示室
映像『海田物語劇場』を見る
ふるさと館2F展示室
織田幹雄関係の資料
広島県安芸郡海田町畝2-10-20

03.02.07撮影

03.02.11撮影

03.02.07撮影
大クス 海田観音免のクスノキ説明板 観音免公園(ふるさと館裏手)
碑  クス トーチカ
原爆被爆50周年(H7)記念碑
織田幹雄展にて・・・

04.08.05撮影

04.08.05撮影
金メダル展示ケース 織田幹雄獲得金メダル 織田幹雄愛用のシューズ等 世界記録章、メダルなど
敬称は略しました
かいた   
海田町


海田町概要
広島県南西部、安芸(あき)郡にある町。
1956(昭和31)年海田市(かいたいち)、東海田の2町が合併して成立。人口3万0596人(H14年12月末)。広島市の東郊にあたる。中心の海田市は海田湾に注ぐ瀬野川河口にあり、山陽道の宿場町、市場町であった。交通の要地で、JRの山陽本線と呉線、国道の2号と31号が分岐する。河口の干拓地ではブドウ作りが盛んであったが、今日では高校、警察署、陸上自衛隊第13師団などの公共施設、広島ガスなどの工場が進出している。

合併についての
住民投票
『海田町と広島市との合併について町民の意思を問う住民投票条例』に基づき2004(平成16)年8月22日に住民投票が実施され、投票率57.91% 賛成4437票、反対8418票で単独町政維持という住民の意思が示されました。
おだみきお
織田幹雄

1905〜1998
日本の代表的陸上競技選手。広島県安芸郡海田町出身、早稲田大学卒業。(広島県名誉県民)。
広島一中時代の1924(大正13)年オリンピック・パリ大会三段跳びで6位入賞、1925(大正14)年に早稲田大学進学、当時「ホップ・ステップ・アンド・ジャンプ」という競技名を『三段跳び』と訳した。1928(昭和3)年のオリンピック・アムステルダム大会(8月2日)三段跳び決勝1回目15
.13m、2回目15.21mの記録で日本人として初めてオリンピックの金メダルを得た。1931年には15.58mの当時世界新記録をつくり、三段跳び王国日本の先駆者となった。
朝日新聞本社運動部長退任後、早稲田大学教授、国際陸連技術委員を歴任。東京オリンピックでは陸上競技の選手強化委員長を務めた。日本陸上競技連盟名誉会長。1988(昭和63)年文化功労者。1998(平成10)年死去。

クスノキ
Cinnamomum Camphora
クスノキ科の常緑大高木樹皮は、暗い灰褐色で細かく縦裂する。 葉は互生、深緑色で光沢があり、枝や葉に芳香(樟脳の香)を有す。葉脈は、3つに分かれる。古くから各地に庭園樹、街路樹などとして植えられる。材は建築、家具、楽器、彫刻などに利用。樟脳の採取もされた。分布 本州(関東以西)、四国、九州、台湾、中国
トーチカ ロシア語で点の意味。1930年代前半にソ連軍が日本軍の侵入に対抗して満州との国境線に沿って配備した鉄筋コンクリート製の恒久的火器陣地。日本軍ではこれを特種陣地と称した。厚さ1.5〜2.5mのコンクリート壁の内部に機関銃、火砲、高射砲、観測器材を収容し、独立または複数の連繋射撃によって火力の拠点とし、また逆襲攻撃の基点とする。大きな司令トーチカは数階建ての建物内に指揮設備、通信設備、居住設備が整い、周辺のトーチカ群との間を地下道で結び、鉄条網、地雷原との組合せで強力な要塞となる。
その後、日中戦争の中国軍、ヨーロッパ戦線の独・仏軍、太平洋戦線の日本軍がトーチカを構築している。トーチカ攻撃には、大規模な砲爆撃が正攻法で、近距離からの銃眼射撃、爆薬の投げ込み、火炎放射器による攻撃も効力がある。



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