りくぐん ぼち
陸軍墓地

  1877(明治10)年の西南戦争以降太平洋戦争までの沖縄県を除く約5000柱が祀られると聞きます、この墓地を訪れるたびに戦争で亡くなる方が二度と(ふたたび)出ないことをわたしは願っているのです・・・
爆心地から≒2200m  被爆当時も比治山公園
  陸軍墓地内に建立されている船舶通信補充特別幹部候補生鎮魂之碑{建立1982(昭和57年)}に手を合わせる為に2001年に訪ねたのですが陸軍墓地の歴史について調べたのは2003(平成13)年になっておじさんの原爆記を掲載してからでした。
  04.07.21 画像追加   04.01.10 裕・記編集

03.09.24撮影
広島市南区 比治山(ひじやま)公園
  この墓地は、1872(明治5)年、広島鎮台(後の旧陸軍第5師団)が設置される前年に、この地比治山に設置されました。
その後、1877(明治10)年の西南戦争から1941〜1945(昭和16〜20)年の太平洋戦争まで、日本国内や海外において戦争により亡くなった多くの人々が葬られています。
  墓地は、1944(昭和19)年に墓石の整理統合のため、その大部分が移設等集約されましたが、原子爆弾の投下により多大な被害を受けました。その後、終戦後の混乱期を経て、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建されました。
この墓地には、約3,500基の墓地とともに、全国から多くの人々の遺骨が合葬されています。さらに、日清戦争、北清事変(義和団事件)及び第一次世界大戦により広島で亡くなった中国、フランスおよびドイツの人々も葬られています。
1995(平成7)年1月 広島市
  ※1944(昭和19)年陸軍墓地に高射砲陣地を作るため、陸軍と広島市が協議し、それまで広々と配置(現在の陸軍墓地、放射線影響研究所、NHKテレビ放送所を含む地区だったそうです)されていた個人墓を全て取り除いて、合同墓碑に合祀することとし、墓碑はこの近くの壕に埋め、遺骨も仮納骨堂に収納することとしていたそうですが高射砲陣地はできたものの原爆被害と敗戦の混乱{占領軍がABCC現在の放射線影響研究所)の陸軍墓地への移転を強行し掘り出された遺骨は南側の斜面の谷間に捨てられたそうですが、プレスコードで一切報道は許されなかったそうです)で放置されて、遺骨も散乱していたままだったのを、(1955〜1960)昭和30〜35年にかけて、立石吾一さん・村田安弘さん・岩田日出子さんたちの献身的な奉仕によって、今のように並べなおされたそうです。
陸軍墓地の石碑 広島市が設置した説明板

03.09.24撮影
礼拝堂内

03.09.24撮影
墓地を正面から見たところ

03.09.24撮影
佛國(フランス)兵・殉國忠士之碑














































































































03.09.24撮影

04.07.10撮影
台湾出身戦没者供養碑 独逸人墓碑

04.07.10撮影
(長江会)慰霊・碑
この合同慰霊碑は昭和14(1939)年末から終戦に到る間に中国揚子江流域に駐留していた碑文に記される九つの部隊が揚子江流域やシベリアではたまた原爆によって戦傷病死した戦友の霊を慰めるために平成6(1994)年大同団結して長江会を結成し戦友有志の醵金と協賛者の寄付金をもって建立したものである。
長江会鎮魂譜

04.07.10撮影
まちづくり交流ウォークで訪れた時はまだ紫陽花が咲いていました

04.07.10撮影
 陸軍墓地より市街地を見る       産業文化センタービル                         NTT大手町ビル



「軍都・廣島関連施設戦跡」編


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船舶通信補充特別幹部候補生鎮魂之碑
中国管区司令部殉職追悼之碑