野砲兵第五聯隊跡

  明治時代大本営が置かれたてからは軍都廣島の中心として原爆投下目標都市となった事は周知のことですが、野砲兵第五聯隊の事も、この碑がここにある事もわたしは知りませんでした、原爆記の関連資料として撮影に行き場所がわからず、歩いておられたお婆さんに聞いたのですがわからず参考にしていた本(植野浩氏著:ヒロシマ散歩)に掲載の写真のバックを頼りに探して撮影しました。
  裏面の碑文がアジア大会の前(平成6年=1994年)に改刻されていました。
中国などに対する卑語(支那、北支など)や大東亜戦争など日本が過って使っていた文言が含まれていたのでしょう。建立当時の碑文は、わたしにはわかりませんが、慌てて改刻することなく昭和59(1984)年当時この碑を建立した元日本軍人の考えが碑文に刻まれていたのでしょうからそのままでよかったのではと思うのです。後日改刻しなければならなと考えたのであれば、その理由と反省の言葉を添えた説明板を横に建てて改刻されてこそ、近隣の国々の人々に多大の迷惑をかけた反省と謝罪になるのではと考えるのです。また、太平洋戦争などで亡くなった方々(天国の日本人)への鎮魂への思いも届くのではとわたしは思うのですが・・・
 07.05.28.追記   03.08.02. 裕・記編集

’03.07.09 撮影
広島市中区基町20 (広島城堀・西側)

’03.07.09 撮影
 
’03.08.22 撮影
野砲兵第五聯隊の門標























































































































































































(碑の裏面に嵌め込まれている)

  1994(平成6)年第12回アジア競技大会広島10月2日〜16日開催でアジアの国々から選手、マスコミが来広する事から碑文が改刻され現在の文章になったようです。
※歩兵師団に通常、1個砲兵連隊が配備されており一般的な編成は
野砲兵連(聯)隊{連隊長は大佐で}は、連隊本部、観測1個中隊、3個砲兵大隊、連隊段別で編成されたそうです。
観測中隊は、師団展開地域の測地、目標の標定、気象観測、通信網の構成連隊段別は、後方勤務部隊で、弾薬の補給などを担当したそうです。




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