中国軍管区司令部の地下通信室・原爆被災説明板

  明治時代になって広島城附近(広島開基の地ということから基町と呼ばれる)は藩政時代の政治軍事拠点から陸軍の拠点として軍事施設が整備されていき急速にその姿を変えていったのです。
1945(昭和20)年8月6日(月)8時15分米軍投下の原子爆弾で城郭建築は悉く倒壊または焼失し、同時に軍事施設の大半が壊滅しました。軍関係者のみならず多くの動員学徒もその犠牲になりました。
  昨(2007)年原爆忌、平和記念式典の後広島城にも立寄ってみたのです、地下通信室跡もみようと近づくと、原爆被災説明板の銅板部分が新しい陶板に取り換えられていました。
市内各地の原爆被災説明板が1980(昭和55)年から設置がはじまったそうですから設置されて四半世紀が過ぎ銅板に焼付けた写真、説明文が分りづらくなってきていますので、順次新しい陶板に取換えられて来ているのでしょう、今(2008年5月)回交流ウォークで訪ねこの頁を更新していなかったことを思い出しましたので、今になりましたが更新しました。
08.05.22更新   03.05.11裕・編集

’07.08.06撮影
広島市中区基町21-1  (設置場所:広島護国神社前南側)

’03.05.08 撮影

’07.08.06撮影

’03.05.08 撮影
中国軍管区司令部の地下通信室・原爆被災説明板
爆心地から約700m
  広島城とその周辺には、多くの軍事施設(中国軍管区司令部など)があり、ここには半地下式の作戦司令室、通信室が設けられていた。この通信室では、多くの軍人、軍属に混じって、学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちも働いていた。
原爆で、市内の電信電話は破壊されたが、かろうじて残ったここの軍事専用電話を使って、女学生が広島の壊滅を通信した。これが、広島の原爆被災の第一報といわれている。
1945(昭和20)年10月 米軍撮影



    (地下通信室関連頁)
旧・中国軍管区地下通信室・全般
旧・中国軍管区地下通信室・内部
中国軍管区軍人軍属・動員学徒慰霊碑
中国軍管区司令部の地下通信室・原爆被災説明板
原爆被災説明板・全体
    (広島城附近の原爆被災説明板)
広島城原爆被災説明板
陸軍五師団兵営跡・原爆被災説明板
中国軍管区司令部の地下通信室・原爆被災説明板


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