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広島市郷土資料館が宇品にあることは知っていましたが、おじさんの「原爆記」を読むまでは陸軍糧秣支廠のことはまったく知りませんでした。陸軍糧秣廠宇品支廠として建設され、日露戦争後缶詰工場が造られたそうです。
「糧秣」とは、兵士の食糧と軍馬の秣(まぐさ)を意味することも知りませんでした。糧秣支廠は兵士の食糧や軍馬の飼料を調達、製造、貯蔵、配送する施設です。 |
| 2005年11月まちづくり交流ウォーク時、館員の方に説明をしていただき、ここ宇品陸軍糧秣支廠では大きく食肉処理場と缶詰工場に分かれていたこと。牛大和煮の缶詰が主なものでったことを知りました、そして新しく被爆建物の説明板が設置されていました。 |
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1897(明治30)年3月宇品海岸通りに陸軍中央糧秣廠宇品支廠が創設されました。
1902(明治35)年陸軍糧秣廠宇品支廠と改称、1906(明治39)年宇品御幸通り西側に移転するための用地が確保され、倉庫・糧米所などの建設と合せて1911(明治44)年3月レンガ造の缶詰工場が建設され6月開設しました。 (日清戦争の時民間調達の缶詰に石が入るなどの不良品が多く軍直轄の製造工場を建設する事にしたそうです)
工場には断肉場、煮肉場、製缶場、製品室などを備え最盛期には3500人の従業員が働いていたが、戦争末期には他支廠への配置替えや疎開などで規模を縮小していおり、被爆時に農作業に動員された学徒などもいたが人的被害は軽微であり、建物は爆風で窓の硝子を割り、屋根の鉄骨を曲げさせたるほどの力が加わったが被害も軽く、市内の被爆者救援にむかった陸軍暁部隊が多くの重傷者を支廠内に収容したそうです。
戦後、缶詰工場を広島糧工が借り受け1977(昭和52)年まで操業していました、その後放置されていましたが、1984(昭和59)年から一部を保存再生工事を施し1985(昭和60)年5月広島市郷土資料館として開館しました。
現在道路を挟んで北側の食肉処理工場は、戦後広島糧工が借り受けていたが、カルビーが引き継いで菓子生産の工場で使っていましたが現在は倉庫になっています。 |
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缶詰工場 |
食肉処理場 |
| 竣工時期 |
1911(明治44)年3月 |
1911(明治44)年3月 |
| 爆心地から |
≒3210m |
≒3040m |
| 構造など |
鉄骨レンガ造、 平屋建 |
鉄骨レンガ造、 平屋建 |
| 現住所 |
南区宇品御幸町2-6-20 |
南区宇品御幸町1-12-23 |
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| 06.11.26追記 06.01.08追記 03.05.17裕記編集 |
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| 関連頁:原爆による屋根鉄骨の曲がり 宇品西公園 |
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03.05.16撮影 |
| 広島市南区宇品御幸2丁目6-20 |
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03.05.16撮影 |
| (現)裏側面=北 |
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03.05.16撮影 |

03.05.16撮影 |
| 南西より見る |
玄関入口 |
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05.11.19撮影 |
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被爆建物
A-bombed Building
被爆時の名称
宇品陸軍糧秣支廠
Ujina Army Provisions Depot
(爆心地から3210m) |
| この建物は、1945(昭和20)年8月6日の原爆にも耐え、その姿を今日に残しています。 広島市 |
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03.05.16撮影 |

03.05.16撮影 |
| 横入口(正面東) |
東面 |
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03.05.16撮影 |

03.05.16撮影 |
| 西面 |
煙突下部跡(灰出し口が見える) |
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03.05.16撮影 |
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現在広島市郷土資料館として利用されているこの建物は、明治44(1911)年竣工の旧陸軍糧秣廠のかんづめ工場を改修したもので、外壁は当時のものがそのまま保存されています。市内に残る他の明治時代の煉瓦造建築に比べ、外壁の控壁や庇部分の細かな造形に工夫が見られ、重厚な美しさを感じさせます。煉瓦は現在のものよりやや大きめで、すべて国産のものを用いており、長辺と短辺を交互に積む「オランダ積み」で積まれています。また、屋根は今回の改修で鉄板を銅板に改めているものの、当時の「瓦棒葺」の工法で復元されているまど明治時代の洋風煉瓦建築を理解するうえで貴重なものです。
明治27(1894)年の日清戦争の際、広島は、同年の山陽鉄道の開通や宇品港の存在などを背景に、大陸派兵基地として重要な役割を果たしました。これを直接のきっかけに、広島は軍事都市としての性格を強め。明治31(1898)年の軍用水道を手始めに、市内に数多くの軍施設が建設されました。この建物もそのうちのひとつです。
また、現在の建物中央部には、原爆の風圧によって曲げられたものと思われる2本の鉄骨が保存されています。原爆投下直後には被災者の臨時収容施設にもなっていたこの建物は、被爆の歴史を語る貴重な証人でもあります。 |
| 昭和62(1987)年3月 広島市教育委員会 |
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