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| 原爆被災説明板に写っている光道国民学校(中区猫屋町3-2)は、爆心地から≒760mで、被爆当時は憲兵隊が使用しており(児童の大半が学童疎開中で1,2年生の一部が明教寺で勉強中だったそうです)原爆被災説明板の写真でわかるように鉄筋コンクリートの建物だったので形態だけは保っていましたが生存者は皆無だったそうです。 |
| 建物は1945(昭和20)年9月崇徳中学の職員、生徒で応急修理され10月、11月と中学校舎として使用されたそうです、1947(昭和22)年からは貸しビル、1952(昭和27)年から1973(昭和48)年までは1階青果市場、2・3階の一部が診療所だったとかで、1987(昭和62)年1月解体され、いまは15階建てのマンションになっています。 |
| わたしは、この辺り土橋地区にはあまり来た事がなく現在でも知らないことばかりですが、この原爆被災説明板でわずかに被爆当時のことを知ったのでした。 |
| 07.03.21追記 04.04.10裕・編集 |
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04.04.06撮影 |
| 広島市中区小網町7番地先 |
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土橋地区・原爆被災説明板
爆心地から約800m |
| 第二次世界大戦の末期、空襲による火災の延焼を防ぐ目的で、木造家屋を解体する建物疎開が市内の各地で実施されました。この作業には、隣組や職場の人たちで組織された義勇隊をはじめ、国民学校や女学校、旧制中学校の学徒も動員されました。被爆当日は第6次の建物疎開作業中で、この土橋地区(小網町・西新町・堺町)にも多数の義勇隊員や約1,800名の学徒が動員されていました。人類史上最初の原爆投下により、その多くが痛ましい犠牲者となりました。
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| 爆風により倒れた鉄塔、前方の建物は光道国民学校の残骸 岸本吉太氏撮影 |
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04.04.06撮影 |
| (画像左手の建物が光道国民学校があった附近です) |
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