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平和大通りは、都市計画街路比治山庚午線4.78kmの一部で、広島市中区鶴見町から西区己斐(鶴見橋、新己斐橋を含む★)までの3.93kmの区間で、通称:百メートル道路といわれ、戦後の広島の歴史を刻んできています。
1946(昭和21)年に決まった広島市復興都市計画では、「中島地区を公園とし、東西に延びる2本の百メートル道路をつくる」とするもので市民の不満の声の広がりで、(現在の)百メートル道路は1本に変更になり、防災道路を兼ね緑地を持った道路として計画されました。
1949(昭和24)年広島平和記念都市建設法により、広島市の中央を東西に貫く平和記念道路と位置づけられ、平和記念公園、河岸緑地などと一体化させて整備されることになりました。
「百メートル道路」と呼ばれていましたが、1951(昭和26)年11月市民公募により「平和大通り」と名付けられました。 |
当初は、道路としての整地が済んでも舗装工事が進まず、道路として形を整えはじめたのは1957(昭和32)年からで、1958(昭和33)年には供木運動が展開されたそうです。
1965(昭和40)年5月西側の観音・福島地区を抜けて己斐まで全通しました。
1986(昭和61)年(当時の)建設省と「道の日」実行委員会により制定された『日本の道100選』に選ばれました。 |
| 現在、平和大通りには約150種2200本の樹木が全国の自治体、世界中の国々などの協力で植えられているそうです。 |
1943(昭和18)年3月※政府は「都市疎開要項」を決定、官公署や軍事施設、軍需工場などを空襲による被害から守るため、民家の取壊しと市民の強制立退きをすすめました。広島市でも133か所が指定され、1944(昭和19)年末から実施されましたその取壊し作業には多数の学生・生徒や市民・周辺町村の住民などが動員されましたが、すべてが屋外作業であったため、原爆により多くの犠牲者をだすことになりました。
そのうちの一つが市街地を東西に横切るように幅100mの防火帯が作られていました。 |
| その防火帯跡が戦後名称をかえ今に繋がる平和大通りになるという悲しい歴史をも内在しているのです・・ |
| 今(2008年3月)回交流ウォーク・平和大通り東地区として平和大通りを遊歩したのですが、まだまだ知らないこと気が付かなかったことが多きことを知りました、6月の平和大通り西地区コースでもまだまだあるのだろうと思っているのです。 |
| 資料は中国新聞社発行「ひろしま通になろう」他を参考にしました。 |
08.08.16更新 07.01.29裕・記編集 |
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08.03.15撮影 |
| 平和大通り (鶴見橋から己斐方向をみました) |
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’06.05.11.撮影 |

’05.09.24.撮影 |
| 竹屋地蔵 |
国泰寺跡 |
| 06.09.27編集 |
05.09.27編集 |
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07.01.24撮影 |

06.06.17撮影 |
| 平和記念公園附近から己斐方面をみる |
東平塚町附近から鶴見橋方向をみる |
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| 平和大通り位置図 |
(生活地図サイト MapFan Webより)
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07.09.02追記 |
| ★フリー百科事典・Wikipediaでは「平和大通りは、鶴見橋西詰めを東端とし、新己斐橋東詰が西端である。」と記述しています。 |
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