相生橋趾碑

  旧相生橋(木造の第1橋)が架けられていた処に建立されている『相生橋趾碑』と『親柱』です。
現在‘T字形’の相生橋は、当初中島北端を経由して‘く字形’をした木造橋・1878(明治11)年架橋でした。1912(大正元)年電車専用橋が北側に架橋され、1932(昭和7)年電車併用の鋼鈑桁橋として架替えられ、さらに1934年橋の中央部から中島北端(当時慈仙寺の鼻)へ橋桁を増設し所謂‘T字形’になったのですが、南側の木造橋が解体される1939(昭和14)年までは‘変形H字形’をしていました。
いままで址と思っていましたが趾という字ではないかと訂正しました 06.05.10更新    04.10.18裕・編集
関連頁 相生橋    (旧)相生橋趾碑    (原爆で変形した)相生橋    相生橋維持修繕工事

04.06.06撮影
原爆ドーム西側元安川河畔(現・相生橋西詰南側)

04.06.06撮影
相生橋趾碑を裏(西側)からみる

04.06.06撮影

04.06.06撮影

04.06.06撮影

04.06.06撮影
  この橋名板は、原爆にあった相生橋を昭和24(1949)年修復した時に設置した親柱(右の絵)に取り付けられていたものです。
また まわりに張っている黒御影石は この親柱に使われていたものです。
左の絵は、昭和7(1932)年に架橋され、被爆を経て昭和24年まで使われた橋の親柱をかいたものです
下の写真は、被爆2ヶ月後の昭和20(1945)年10月の相生橋附附近の状況です
昭和59(1984)年6月 広島市
  旧相生橋は、昭和7(1932)年に架設され全国でも珍しいT字形をした橋です。昭和20(1945)年8月6日の原子爆弾投下の目標になったともいわれます。この原子爆弾の爆発により、相生橋は、強い爆風を受け、その爆圧は、通常橋にかか荷重の15倍に当る1平方メートル当り7トンと推定されています。このような瞬間的に強い爆圧を受けた相生橋は、板バネのように大きく曲り、又跳ね返るような動きを繰り返し、同時にコンクリート床板は、宙に浮き上りました。幸い落橋を免れましたので修理し被爆後、約35年間使用されてきましたが、老朽化のため昭和58年10月に現在の橋に架け替えられました。新しい橋の親の橋名は、前衆議院議長灘尾弘吉先生の揮毫によるものです。
昭和58(1983)年10月  建設省広島国道工事事務所
昭和7年に架橋され昭和24年まで使われた橋の親柱 昭和二十四(1949)年修復した時に設置した親柱
昭和20(1945)年10月の相生橋附附近の状況 (相生橋橋名板碑より)



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