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縮景園にも多くの被爆した人々が逃げてき亡くなり、荼毘に臥すことなく埋葬されたそうで発掘調査で数千点の遺骨片が発見され、
昭和63年(1988)年3月19日、遺骨発掘地点に慰霊碑を建立したそうです。 |
| 避難先に指定されていた縮景園には、午前8時15分の被爆直後から数多くの被災者が避難してきたそうで、午後2時頃木々が燃えはじめ竜巻が起こり、多くの被爆者が息絶えたと聞きます・・・ |
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縮景園は被爆当時、第二総軍司令部付情報参謀・大屋角造中佐指揮下の海外通信傍受所が置かれており、米国移民2世の女性20人が海外放送を受信していました。
原爆被災後おびただしい被災者で園内は埋まり、園池の水をもとめた人々の死体が重なっていき、午後2時ごろから園内の森が燃えはじめ、同時に竜巻がおこり、地上の木切れ、トタンなどが100mも高く巻き上げられ対岸の大須賀方面の河原に落ちました。火に追われれるように(京橋)川を渡って逃げまどう状況がみられ、舟で渡る人もいましたが、泳いで渡ろうとした人はほとんどが亡くなったそうです。園の裏土手では、すでに動けなくなった人、死んでいる人が折り重なって足の踏み場もないほどでありました。その後も当分の間園の中や前の松原へは、軍が罹災者のためにバラックを急造し、10数世帯が生活を営んでいました。 |
昭和62(1987)年夏、もと朝日新聞カメラマン・松本栄一氏から被爆直後9月下旬の縮景園を写した写真が寄贈されました。そこには、小高い丘の焼け焦げた松の根元に角材と板を組み合わせただけの簡素な立札3本が写り、表面に「戦死者之墓 三十八名」「戦死者之墓 五名」「戦死者之墓 二十一名」との文字が読め、64名の犠牲者を埋葬したことがわかり、その位置は、写真に写る牛田山の稜線、常葉橋の架かり具合などで特定できたので広島県教育委員会はただちに発掘することを決めました。
昭和62(1987)年7月31日午前10時教育委員会・縮景園などの職員15人が黙祷後発掘作業をはじめました。午後3時35分、地表下約30cmのところから大量の遺骨が発見され翌8月1日午後4時まで発掘作業が行われ、全部を収容しました。広島県警本部は8月1日12時にこれらが人骨である旨断定しました。
8月6日遺骨は市内を巡行の後、荼毘に付され、平和記念公園の原爆供養塔に納められました。
昭和63(1988)年3月19日縮景園内の遺骨発掘場所に慰霊碑が建立されました。 |
| 資料は広島県教育委員会発行「縮景園史」を参考にしました |
08.05.01追記 01.12.01裕編集 |
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