原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑

太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり
  被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からのものだそうです。 私には到底想像できない光景を目の当たりにした歌人が詠んだ短歌・・・・・歌人にこのような歌を詠ませる何たることだと怒りさえ覚えます、二度と起してはならぬ惨禍と、1971(昭和46)年8月4日、国際会議場南(西)側に建立されています。
国民学校教師・子どもの犠牲者数は、教師約200人、子ども約2,000人と推定されているそうです。
この彫刻作品が刻まれたサインから芥川永作品とわかりました。
03.01.10追記    02.02.15裕・編集

03.12.04撮影

03.01.06撮影
建立年月日 
建立者 
1971(昭和46)年8月4日
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑建設委員会
国民学校
  1941(昭和16)年の国民学校令の公布から1947(昭和22)年の学校教育法の公布まで存続しました。
わが国の初等学校(小学校)の名称です。従来の教科を国民科(修身、国語、国史、地理)、理数科(算数、理科)、体錬科(体操、武道)、芸能科(音楽、習字、図画及工作、裁縫)の四教科に統合し、太平洋戦争への総力戦体制に対応して言行一致・心身一体の皇国民錬成の教育を目ざしたものでした。学校行事や団体訓練が重視されました。国民学校は初等科6年、高等科2年とし、この8年を義務教育と定めましたが、実施延期のまま敗戦を迎えました。 
  原爆犠牲となった国民学校教師・子どもの数は、正確には解かっていませんが、教師約200人、子ども約2,000人と推定されているそうです。
  1946(昭和21)年被爆歌人正田篠枝さんが占領軍の目をさけ、広島刑務所の印刷部で秘密出版した歌集「さんげ」からとられたものだそうです。






























広島市中区中島町1 平和大通緑地(国際会議場南西)

’02.08.06. 撮影

’02.02.03. 撮影

’02.02.03. 撮影



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