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友垣にまもられながらやすらかに
ねむれみたまよこのくさ山に |
| 碑裏の短歌 |
| 宮川雅臣(マサオミ)氏は当時(昭和23年)の校長先生 |
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| 材木町〜木挽町の建物疎開作業に来ていた広島市立高等女学校の1、2年生544人、職員8人全員が亡くなったそうです。また、他の動員先を含め、679人※1が原爆で亡くなり、市内の学校では最も多くの犠牲者を出したと聞きます。 |
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| ※1 |
『建物疎開作業中の1、2年生(当時12、13歳)541人、教職員7人の全員が亡くなり、他の動員先を含め676人が被爆死しました。』と説明板に記述がありました。 09.07.09追記 |
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慰霊碑の名称をわたしは、石碑に刻まれている「広島市立高女原爆慰霊碑」を採用していますが、説明板には「広島市高等女学校原爆慰霊碑」という本来の校名を採用しています。 |
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碑の製作者が河内山賢祐とわかり追記しました。 |
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この広島市立高女原爆慰霊碑に頭を垂れ(わたしがはじめて)撮影したのは2001年10月でした。それ以来何度も訪れていますが、碑の東側に説明板が設置されたのがいつであったか記憶にはないのです。
先月(2009年6月)も立ち寄って居るのに説明板を読んだことがなかったと、被爆64年目を一ヶ月後に迎えようとしてしていた今月(7月7日)立ち寄り説明板を読んだのです。説明文にある犠牲になった方々の数が気にかかり撮影しました。帰宅後わたしが作成している、この頁をみてみました。犠牲者の数が違っていましたので追記すると共に現在の慰霊碑廻りの画像を追加しました。 |
| 09.07.09追記 07.03.10追記 01.10.10裕・編集 |
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’01.10.04撮影 |
| 広島市中区中島町1 平和大通緑地(平和大橋西詰南側) |
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’09.07.07撮影 |
| 東側(画像左側)に説明板が設置されています |
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’02.08.06.撮影 |
| 中央の少女が持つ箱には、原爆の原理になったアインシュタイン(1879-1955)の相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式「E=MC2」が刻まれています。 |
| Eはエネルギー。 Mは物質の質量。 Cは光の速さ(≒30万Km毎秒) |
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’01.10.04撮影 |
| この石碑は当初は設置されず※2のちに設置されました |
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’01.10.04撮影 |
碑建立年月日:1948(昭和23)年8月6日
碑建立者:広島市女原爆遺族会 |
| 1948(昭和23)年8月6日に母校跡に建立 |
| 1957(昭和32)年6月20日に現在地に移設 |
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制作: 形状: |
河内山賢祐(彫刻家)
高さ1.77mの万成石の碑で、正面には3人の少女のレリーフ |
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| 「E=MC2」の箱を抱え天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は犠牲になったことを表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られています。 |
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1921(大正10)年広島市高等女学校創立
1948(昭和23)年広島市二葉高等学校となる
1949(昭和24)年広島県広島舟入高等学校となる
1980(昭和55)年広島市立舟入高等学校となる |
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1901(明治34)年広島県立広島高等女学校が設立され1941(昭和16)年広島県立広島第一高等女学校と改称(県立第二高女設立で)と混同を避けることで、市女、市立高女、市立第一高等女学校と呼称されていたそうです。
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| ※2 |
慰霊碑には「原爆」という文字が使用できなかったとのことです。
当時(日本は)連合軍の占領下だったからで、これは米国が占領政策として原爆報道を厳しく規制(プレスコード)したため、慰霊碑に原爆の文字を書き込むことが出来なかったからです。占領政策が緩みはじめた1951(昭和26)年ごろから慰霊碑の中にも「原爆」という文字が出てくるようになったそうです。 |
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1945(昭和20)年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌日(8月15日)には「終戦の詔書が」ラジオで発表され、日本は無条件降伏しました。
それから、1952(昭和27)年4月28日のサンフランシスコ対日講和条約の発効で、戦争状態が終結される事になるまで連合軍の占領下に置かれました。(ただし条約には日本の主権・平等を承認していますが、外国軍隊の日本駐留継続を認めた事で今日まで米国軍が駐留する根拠となっています) |
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こうちやま けんすけ
河内山賢祐
1900-1980 |
彫刻家。山口県生まれ。東京美術学校卒業
1929(昭和4)年帝展入選。1960(昭和35)年伊藤博文像:旧大和町(光市)など。
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