広島市立高女原爆慰霊碑

友垣にまもられながらやすらかに
 ねむれみたまよこのくさ山に
碑裏の短歌
宮川雅臣(マサオミ)氏は当時(昭和23年)の校長先生
  材木町〜木挽町の建物疎開作業に来ていた広島市立高等女学校の1、2年生544人、職員8人全員が亡くなったそうです。また、他の動員先を含め、679人が原爆で亡くなり、市内の学校では最も多くの犠牲者を出したと聞きます。
碑の製作者が河内山賢祐とわかり追記しました
07.03.10追記     01.10.10裕・編集

’01.10.04 撮影
広島市中区中島町1 平和大通緑地(平和大橋西詰南側)

’02.08.06. 撮影
 中央の少女が持つ箱には、原爆の原理になったアインシュタインの相対性理論からとられた原子力エネルギーの公式「E=MC2」がきざまれています。

’01.10.04 撮影
この石碑は当初は設置されず※のちに設置されました

’01.10.04 撮影
建立年月日:1948(昭和23)年8月6日
建立者:広島市女原爆遺族会
昭和23(1948)年8月6日に母校跡に建立
昭和32(1957)年6月20日に現在地に移設
制作:河内山賢祐(彫刻家)
形状:高さ1.77mの万成石の碑で、正面には3人の少女のレリーフ
E=MC2の箱を抱え天使の翼をもつ制服・モンペ姿の少女は犠牲になったことを表し、両側から友のささげる花輪(慰霊)とハト(平和)に守られています。
広島市高等女学校から
広島市立第一高等女学校を経て
戦後、広島二葉高等学校になり
さらに現在の広島市立舟入高等学校へとなる
「原爆」という文字が使用できなかった
当時連合軍の占領下だったからだそうです。これは米国が占領政策として原爆報道を厳しく規制(プレスコード)したため、慰霊碑に原爆の文字を書き込むことが出来なかったからです。占領政策が緩みはじめた1951(昭和26)年ごろから慰霊碑の中にも「原爆」という文字が出てくるようになったそうです。
昭和20(1945)年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾、翌8月15日には「終戦の詔書が」ラジオで発表され、日本は降伏しました、
それから、
昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ対日講和条約の発効で、戦争状態は終結される事になるまで連合軍の占領下に置かれました。(ただし条約には
日本の主権・平等を承認していますが、外国軍隊の日本駐留継続を認めた事で今日まで米国軍が駐留する根拠となっています)
こうちやま けんすけ
河内山賢祐
1900-1980
彫刻家。山口県生まれ。東京美術学校卒業
1929(昭和4)年帝展入選。1960(昭和35)年伊藤博文像:旧大和町(光市)など。



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