原爆犠牲新聞労働者の碑 (不戦の碑)

  新聞関係者の原爆で命を奪われた126名の冥福を祈り、不戦を誓った碑。
太平洋戦争末期には中国新聞社にも国民義勇隊が編成され他の新聞社、通信社の広島支局職員もこれに編入され総勢363名だったそうで、昭和20(1945)年8月6日もそのうちおよそ40名の方々が水主町附近(現・加古町のこのあたり)の建物疎開に動員され全員が爆死されたそうです。
※ご存知の方からはそんなこともわからないのかと言われる事でしょう。
(どちらかというと意匠系だったわたしですが)この碑の形が何を意味しているかは知りませんでした、今回(2005年7月16日)まちづくり交流ウォークの時に教えていただき横から撮影しました。『輪転機で新聞を印刷しているイメージとPENのPという文字を表している』そうです・・・
中国新聞 114名
同盟通信(現・共同通信) 5名
西日本新聞 2名
読売新聞 2名
朝日新聞 1名
毎日新聞 1名
合同新聞(現・山陽新聞) 1名
※他資料を見ているとPeace(平和)とPress(報道)の両頭文字をかたどったものと云われていると・・・
資料は西尾隆昌氏著「広島のいしぶみはみつめる」他を参考にしました 05.10.06追加編集   01.04.20裕・記編集

’01.04.12撮影

’05.07.16撮影
建立地: 広島市中区加古町3 本川緑地

’05.01.22 撮影

’05.01.22 撮影
建立者:中国新聞社労働組合 125名のお名前と1985(昭和60)年8月6日建立
中國新聞沿革
1892(明治25)年 5月 日刊「中國」として創刊。
1908(明治41)年 題字を「中國新聞」と改称。
1926(大正15)年 3月 (当時)上流川町にRC造3階建の新社屋竣工(本館)
1936(昭和11)年 12月 RC造7階建・塔屋3階の新館を増築
1945(昭和20)年 8月6日 原爆投下のため、本社も被災。(本館爆心地より≒890m)新館≒870m)
8月9日〜 島根新聞や九州、大阪の朝日・毎日新聞などの協力で代行印刷で対応
8月31日〜 温品(ぬくしな)疎開工場で自力印刷
1955(昭和30)年 9月 本館、新館(そのままで)を包込んで5階建てで一体化
1969(昭和44)年 9月 平和大通り沿いの現在地に社屋新築移転
1970(昭和45)年 胡町(旧町名:上流川町)の旧社屋解体(跡地は現在・三越百貨店)
  原爆関連慰霊碑などの頁をみてご意見をいただくことがあります、讀賣新聞大阪本社科学部の本多宏氏からメールをいただいたのです、氏は広島総局支局長をされた方でしたメールをやり取りしたとき『被爆当時の関矢弘・広島支局長』のことをお聞きし、この碑の裏面・亡くなった方々のお名前が刻まれたプレートの重みを教わりました、わたしは人が生きたという証の重さがわかっていなかたのではとプレートの拡大画像を編集しました。この碑に限らず、他の碑も機会を作り亡くなった方々のお名前が刻まれた部分の頁を作成して行こうと思ったところですが・・・
中國新聞の略沿革とともに追記しました。 08.04.01裕・記編集



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