|
|
太平洋戦争末期、全国の主要都市が焦土と化しつつあった昭和20年春に入学した我々広島高等師範学校附属中学校1年生100余名は8月6日人類初の原子爆弾により千田町の母校で11名の級友を一瞬にして失った。しかし、他の大多数は被爆直前に広島を離れ、科学学級は比婆郡東城町、普通学級は賀茂郡原村へとそれぞれ農村挺身隊等の名目で学校を挙げて疎開したため、危うく全滅を免がれ得たのである。これは、厳しい戦時体制下でありながら冷静な情勢判断を下した母校と恩師をはじめ多くの関係者の御尽力の賜に外ならない。
爾来幾星霜、原爆のため止むなく多くの友が去って往った一方、その後新たに多数の級友を得て、いま卒業30周年を迎えるに当り、ここにその経緯の概要を記し母校に深甚なる謝意を表すると共に、亡き友の冥福を祈り後代にこの事実を語り継がれんことを願い、之を建立するものである。 |
|
 |
| 2005年交流ウォークの時探せませんでしたので、後日来訪者帳に記帳しバッチを付けて構内を探し始めた校舎西北の事務室の斜め後ろに建立されておりました。 |
| 05.12.04裕・記編集 |
|
| 関連頁:廣島等師範學校附属中學校原爆死没者・戰没者慰靈碑 |
|

05.11.22撮影 |
| 広島市南区翠1-1-1 (広島大学附属中・高等学校内) |
|

05.11.22撮影 |
|

05.11.22撮影 |
| アカシア会41回生 昭和56(1981)年8月 |
|