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日本移動演劇聯(連)盟という組織は時の内閣情報局の手で戦時体制下の文化政策推進のため結成されたもので1941(昭和16)年大政翼賛会大会議室で結成式を挙行しました。
1945(昭和20)年所属劇団の「劇団ごと地方疎開」ということで聯盟準専属の櫻隊(丸山定夫外14名)は日本移動演劇聯盟中国出張所兼寮の広島市堀川町九十九番地に駐留と決まり、1945(昭和20)年6月22日に着任、8月6日(月)8時15分寮にて被爆。
櫻隊、高山象三(享年21歳8/20)、島木つや子(22歳)、森下彰子(23歳)、羽原京子(推定23歳)、小室喜代(30歳)、園井恵子(31歳8/21)、仲みどり(36歳8/24)、丸山定夫(40歳=隊長、8/16)、笠絅子(41歳=島木の母)の9名の方々が原爆の犠牲になりました。 |
| 当時の堀川町99番地(現:中区新天地5 ヤマダ電器が入っているビルの西半分の場所)で被爆、亡くなった劇団員9人をしのび1955(昭和30)年建立。 |
| 資料は『江津萩枝さん著・櫻隊全滅』を参考にしました |
06.09.08追加 05.09.13再編集 00.11.30裕・編集 |
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| 関連頁:(丸山定夫氏が亡くなった)存光寺 |
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00.11.11撮影 |
| 広島市中区中町 平和大通り(北側)緑地 |
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06.08.06撮影 |
| 原爆忌の8月6日平和記念式典後立ち寄って・・・ |
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移動演劇さくら隊原爆殉難碑の由来
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広島の移動演劇さくら隊原爆殉難碑は、原爆投下から7年後の1951(昭和26)年8月中国新聞社芸能記者の人達によって「丸山定夫・園井恵子 追慕の碑」として、白いペンキ塗りの質素な木の碑として新川場町のどぶ川のほとりに建立されました。
それから四年後の1995(昭和30)年8月に広島で開かれた第一回原水爆禁止世界大会で、碑の建設が、劇団俳優座の永田靖氏らによって、新劇人へ呼びかけられました。建設に当っては徳川無声(弁士:1894-1971)、八田元夫(演出家:1903-1976)、山本安英(女優:1906-1993)の各氏が奔走し、1959(昭和34)年8月、新制作座、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場の6劇団と「演劇人戦争犠牲者記念会」の協力によって建立されました。
碑の「桜隊」の「桜」が「さくら」と仮名文字で掘られているのは、占領下にあったため漢字の「桜」は使用できなかったからです。 |
| 2000(平成12)年8月広島市民劇場 |
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碑の裏面には亡くなった9名の方々のお名前
碑の側面、1955之建 新協劇団、文学座、俳優座、ぶどうの会、民芸、中央芸術劇場、演劇人戦争犠牲者記念会 |
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