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| 1945(昭和20)年8月6日米軍投下の原子爆弾により無残な姿になり今日まで残され、原爆ドームと呼ばれている建物は、チェコの建築家ヤン・レツルの設計監督により、1915(大正4)年4月(当時の)猿楽町に完工した広島県物産陳列館であり、緑色の屋根、特徴あるドームをもち市民に親しまれていたそうです、その歴史を知ろうとして編集した頁です。 |
| この頁を編集するに当たって参考にした図書 |
04.04.03追記 00.01.15裕・編集 |
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| 廣島縣物産陳列館 |
1915(大正4)年4月5日 |
広島県物産品の販売促進を図る拠点として竣工、8月5日開館。 |
| 廣島縣商品陳列所 |
1921(大正10)年1月〜 |
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| 廣島縣産業奬勵館 |
1933(昭和8)年11月〜 |
県の産業奨励にとどまらず、亜細亜に対する経済進出拠点にもされ1934年4月(中国)大連・新京・ハルピンに出張所が設置され、1938(昭和13)年4月には奉天・天津・上海そして神戸にも事務所を設置しました。 |
| (統制会社の事務所) |
1944(昭和19)年3月〜 |
内務省中国四国土木出張所(1階の一部と3階を使用)、廣島縣地方木材(株)、日本木材(株)廣島支社、廣島船舶木材(株)等に使用されました。 |
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| ↓ 原爆被災説明板を撮影したものです |
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| 原爆ドーム所在地:広島市中区大手町1-11、 原爆被災説明板設置場所:広島市中区中島町1 |
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03.02.23撮影 |
広島県産業奨励館・原爆被災説明板
爆心地から約160m |
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この建物は、チェコの建築家ヤン・レツルの設計監督により1915(大正4)年4月に完工し、特徴ある緑色のドームによって市民に親しまれていました。
原爆は、この建物の南東約160m地点の上空約580mでさく裂したため、建物は大破・全焼して館内にいた全員が即死しました。その後、原爆の惨禍を全世界に伝えるとともに、世界平和へのシンボルとして1996(平成8)年12月、ユネスコの世界遺産一覧表に登録されました。
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| 世界遺産一覧表に記載された英語の表現「HIROSHIMA PEACE MEMORIAL(GENBAKU DOME)」を日本語に訳すと「広島平和記念碑」になるのでしょうね、文献によってはわざわざ単独でそう書いているものもありますが、あくまで英語訳からきたものとの考えで、日本語では原爆ドームでいいと思うのです、わたしは。 |
| 04.04.03裕・追記 |
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1945.11米軍撮影 写真:広島平和記念資料館提供 |
| ※広島平和記念資料館が収蔵保存している資料「平和データーベース」から許可申請を提出し、許可をいただき掲載しました。 |
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廣島縣産業奬勵館の概要
| 構造他 |
鉄骨入りレンガ・石造り
3階建(一部5階)地下1階
建築面積1,023u、高さ25m
セセッション様式
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| 設 計 |
ヤン・レツル |
| 施 工 |
椋田組 |
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ヤン・レツル Jan Letzel (1880-1925)
| 1907 (明治40)年 |
横浜のデ・ラランデ事務所で働くため来日。
現在のチェコ出身のセセッション(分離)派の建築家。 |
| 1909 (明治42)年 |
同じチェコ人の仲間と共同で設計事務所設立し独立。 |
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日本での本格的な建築活動、デザインを担当したそうです。
宮城県の県営松島パークホテル(1913年竣工・1969年焼失)を当時の寺田祐介宮城縣知事が気にいり、その後廣島縣知事になったことから廣島縣物産陳列館(1915年竣工・1945年被爆)の設計者として指名したそうです。
広島県には他に宮島ホテル(1917年竣工・1952年焼失)があったそうです。 |
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分離派
Sezession(独語) |
ゼツェシオン{=ゼツェッション=セセッション(=分離派)}
19世紀末、ドイツとオーストリア各地におこった芸術革新運動。
この名称には、過去の歴史様式から「分離」して新しい創造に向かおうとする意味が込められています。絵画の刷新という面では、フリッツ・フォン・ウーデが中心となったミュンヘン分離派(1892)、リーベルマンらのベルリン分離派(1899)がありますが、これらはフランス印象派の影響を抜けきることができず、歴史的な意味からは、建築・工芸の領域にわたったウィーン分離派の仕事が特筆されます。
☆ゼツェシオンの影響を受けたといわれる建物「旧大阪商船三井船舶株式会社門司支店」もあります。 |
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| 広島市・広島教育委員会:企画製作ペーパー建築模型(を撮影しました) |
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大正3(1914)年12月ごろの建設中の写真だそうです。
(上記写真はペーパー建築模型の中の資料を使用しました) |
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