中島地区原爆被災説明板 ・ 中島勧商場跡説明碑

  平和記念公園内に設置された4箇所の原爆被災説明板うちの1つです。被爆前の繁華街だった残り香は、現在の平和記念公園からは想像できませんが、少し立ち止まってみられませんか・・
他に猿楽町通り周辺  広島県産業奨励館(現:原爆ドーム) 燃料会館(現:レストハウス) です。
04.03.01追記   02.04.10裕・編集
    関連頁:平和乃観音像(中島本町町民慰霊碑)   中島本町被爆復元地図:板

’02.03.30. 撮影
広島市中区中島町1 (平和記念公園内)
中島地区・原爆被災説明板
爆心地から約100m〜700m
  中島地区(現在の平和記念公園一帯)は、幕末から明治・大正・昭和にかけて市内有数の繁華街としてにぎわっていました。1945(昭和20)年8月6日、爆心地から至近距離にあったこの地区は、全滅状態となりました。この日は、多数の学徒と地域や職場から動員された人々が現在の平和大通り周辺で、建物の疎開作業のため動員されていました。顔の判別もつかぬほど焼けただれ、水を求めて川岸に集まった生徒たちは、全員が死亡しました。
写真説明:中島本町一帯の惨状 佐々木雄一郎氏撮影 1945(昭和20)年9月
02.04.10裕・編集
中島勧商場跡・説明碑

’04.02.22. 撮影
中島勧商場跡
  『このあたりは、元安川、本川の水運に恵まれ、広島城下の商業の中心地であった。
明治15(1882)年には各種商品を取扱う集団的な小売店舗商業として中島集散(集産)場が開設。明治25(1892)年には中島勧商場と改称された。附近には映画館(活動写真)、撞球店、射的場などの遊技場が軒をつらね、昭和初期まで市内第一の歓楽地として繁栄をつづけた。』
他に横町の広島商工倶楽部、堀川町の広島中央勧商場、堺町勧商場、胡子勧商場、横町勧商場などが明治末期までに次々に開設したそうです。
大正元(1912)年 市内電車が運転しはじめると、紙屋町、八丁堀、広島駅前、宇品海岸通が新しい盛り場として賑わいだす。
大正10(1921)年 堀川町の勧商場跡地に最新の盛り場“新天地”が誕生。
昭和2(1927)年 新天地につながる薬研掘から流川筋にかけ東新天地が誕生。
昭和4(1929)年 百貨店“福屋”の出現につながっていくのです。
かんしょうば
勧商場
= 勧工場
(かんこうば)
明治・大正時代、多くの商店が一つの建物の中で種々の商品を陳列・販売した所。デパートの隆盛とともに衰退。博品館。
どうきゅう
撞球 

ビリヤードのこと。玉突き。




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