ひろしま へいわきねん しりょうかん・ほんかん
広島平和記念資料館・本館
(つうしょう) げんばくしりょうかん
通称:原爆資料館
  平和記念公園は建築家・丹下健三(代表)、浅田孝、大谷幸夫、木村徳国、四氏の設計です。
コンペ入選の当初案は平和記念館--巨大アーチの慰霊塔--旧産業奨励館(原爆ドーム) を一直線の南北基軸とし、平和記念館には、(東に)本館+(中央に)陳列館+(西に)集会所 を配置した案でした。(+部分は空中歩廊で繋ぐ)
この広島平和記念資料館・本館(西館)は、当初の案である原子爆弾災害資料陳列館に当り、柱で浮かした建物とし、100m道路(平和大通り)からの門にもなり陳列館の列柱を透かして、慰霊塔、旧産業奨励館(原爆ドーム)を見通せるように計画した建物です。
この原爆資料館下のピロティー空間には、平和を行動的にたたかいとる人々のエネルギーで満たしたいという設計者の願いが込められているそうです。
  昨日(2006年4月21日)ラジオを聴いていたらこの「原爆資料館が国の重要文化財に指定されることが決まった」と、戦後の建築としては初の指定となるそうです。設計者※は丹下健三と紹介していましたが・・・
広報ひろしま8.1号をみていて「2006(平成18)年7月5日国の重要文化財に(正式に)指定された」とありました。
  ※広島平和記念都市建設法に基づいての設計競技1位入選の丹下健三グループが平和記念公園などと合せて設計したもので、実施設計が丹下健三。
世界平和記念聖堂も同時に国の重要文化財指定されました。 06.08.01追記    00.01.15裕編集
関連頁 平和記念館(平和記念資料館東館)+原爆災害資料陳列館(通称・原爆資料館)+集会所(国際会議場
敬称は略しました 

’00.08.05. 撮影
平和記念資料館北面を≒南側(平和大通り越)に撮影しました。
この建物の形状はハーモニカ型で、ピロティ形式(仏建築家ル・コルビジェがよく採用した形式)です。
 平和記念資料館開館
1955(昭和30)年8月24日
 平和記念館と平和記念資料館(本館)改築
1991(平成3)年8月(本館) 地上2F一部中3F、延床1,615u
1994(平成6)年6月(東館) 地上3F地下1F、 延床10,098u
※東館に対して西館と記述していましたが、広島市広報をみると本館と記述していましたので訂正しました。
 平和記念資料館の歩み
1949(昭和24)年9月広島中央公民館に「原爆参考資料陳列室」設置
1955(昭和30)年8月平和記念館と平和記念資料館が開館
1994(平成6)年6月平和記念館を改築し一体化し東館・本館(西館)として開館

本館(西館)の館名

’05.08.12.撮影
この平和記念資料館の10本の柱と対面に平和の門(10基)ができて平行位置とかで≒西南より撮影しました。

’03.10.09 撮影
ピロティー空間で修学旅行の小学生が昼の弁当を食べていました、若いエネルギーで満ち満ちてはいましたが・・・

’00. 01.10. 撮影

’01.09.01. 撮影
左に広島国際会議場への連絡廊下橋がみえます 北から見る 手前:平和の池、原爆死没者慰霊碑

’04.02.22. 撮影
手前から (西ドイツから送られた)バラの植込み、平和の灯、原爆死没者慰霊碑、広島平和記念資料館

’02.12.24 撮影
平和記念資料館改修工事が始まっていました

’00. 01.10. 撮影

’00.08.27. 撮影
左(西側)に広島国際会議場への連絡廊下橋がみえます
競技設計
(コンペ)
広島市復興局により実施。 1949(昭和24)年7月20日締切り時、145点の応募があったそうです。
当時東大助教授・丹下グループ案が1等になる。
募集要綱には
旧産業会館を含む中島地区一帯を対象として、
平和記念館、原子爆弾災害資料の陳列館、集会場、平和の鐘を釣る塔などの配置が求められていたそうです。



平和記念公園」編



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