広島ゆかりの人たち No.2(外国人編)

  いろいろな外国の人たちがこの広島の地に足跡やゆかりが・・・最初に編集した『広島ゆかりの人たち』の中から外国の人たちを分離独立した頁です。
  原爆資料館50周年記念展で(武力闘争の)エルネスト・チェ・ゲバラが1959(昭和34)年平和記念公園を訪れ原爆死没者慰霊碑に献花したこと等を知りましたが直接的な碑などがありませんのでこの頁には取り上げていませんが・・・
08.09.25更新   04.09.26裕記編集
ペドロ・アルベ
1907-1991
スペインのバスク地方ビルバオ生まれ。1927年イエズス会に入会、1936年司祭叙階後、1936(昭和11)年来日、1940(昭和15)年山口教会主任司祭を経て1942(昭和17)年から12年間イエズス会長束修練院院長及び修練長。
1945年(昭和20)8月6日原爆投下からは多数の被災者を修練院に収容し、医学専攻の力量を発揮し治療にあたる。1954(昭和29)年日本準管区長となり東京に赴任。1958年から7年間日本管区長。1965年5月イエズス会総長に選出。1983(昭和58)年総長を辞す。1991(平成3)年2月5日帰天されました。

関連頁 (イエズス会長束修練院に建立の)ペトロ・アルベ神父像
経歴は碑文を参考にしました。08.09.25追記
ノーマン・カズンズ
1915-1990
米・ニュージャージー州生まれ。コロンビア大学卒。
米国ニューヨークの文芸雑誌「土曜文学評論」の編集長として、1949(昭和24)年広島を訪れ、ルポ「4年後のヒロシマ」を発表。これを契機に、流川教会の谷本清牧師らとともに原爆により家族を失った子どもに対する「精神養子運動」を行い、400名を超える子どもたちに米国から物心両面で支援しました。
さらに1955(昭和30)年谷本牧師や原田東岷医師らが取り組んでいた原爆後遺症のケロイドの治療に関わり、25名の女性の渡米治療に尽力し、彼女たちに将来に対する希望と自信を与えました。
1964(昭和39)年、広島市特別名誉市民の称号を受けました。
関連頁 (平和記念公園公園)ノーマン・カズンズ記念碑
マルセル・ジュノー
1904-1961

スイスの医学者。ラ・ショー・ド・フォンに生まれる。
1945(昭和20)年8月9日赤十字国際委員会の主席代表としての当初来日の目的は連合軍捕虜等の動静を調査することだったそうです。
被爆の惨状を知り9月8日に15トンもの医薬品※と共に広島入りし博士は赤十字がもつヒューマニズムの精神で被爆者医療に自らも携わり、多くの市民が救われたそうです。
関連頁 マルセル・ジュノー博士記念碑(平和記念公園) マルセルジュノー博士レリーフ(赤十字) ジュノー広場
フロイド・W・シュモー1895.9.28-2001 米国の森林学者。広島市の特別名誉市民・1983(昭和58)年11月称号贈呈。
1948(昭和23)年原爆によって住み家を失った市民のため、住宅建設資金の募金運動を始め、翌(1949)年には広島を訪れ、寄せられた募金と学生30人余りの応援も得て労働奉仕により住宅を建設し、市に寄贈するなど、広島市の復興に大きな役割を果たしました。4年間にわたる奉仕で寄贈された住宅は、南区皆実町、中区江波など計19棟(15棟+1会館とも)にのぼりました。米・シアトル市には1990(平成2)年シュモーの働きかけで建設された「シアトル・ピース・パーク」があり中央にサダコ像が設置されています。
※尊敬を込めてシュモー博士と呼ばれ、説明板にも記述していありますが、実際は博士号は取得していなかったそうで、1983(昭和58)年その事を知ったタフツ大学准教授だった秋葉忠利(現在広島市長)が同大学に「ヒロシマの恩人」シュモー氏に『人間愛』の名誉博士号を贈ろうと呼びかけ実現したそうです。
関連頁 シュモーの庭  シュモー会館  ヒロシマの忘れ得ぬ人びと’(説明板)
07.8.28追記
ナニ・B・ゲーンス
1860-1932
広島女学院校母。米国ケンタッキー州生れ。メソジスト宣教師として来広。45年間広島でキリスト教と女子教育のため働く。比治山に(当時は認められていなかった外国人の埋葬)特例として埋葬、墓標には「Workers together with God(我らは神とともに働く者なり)」が刻まれている。
関連頁 (女学院に建立の)校母ゲーンス先生胸像
トルーマン
Harry S. Truman
1884-1972
米国政治家。ルーズベルトの死により副大統領から第33代大統領となる、1948年再選(在任1945年4月12日-1953年1月20日)。民主党選出。日本への原爆投下命令はポツダム宣言発表の一日前、1945(昭和20)年7月25日に行った。二発目の長崎投下後「さらに10万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」として、3発目以降の使用停止命令を出したとされる。1953(昭和28)年1月7日には、水素爆弾の開発を発表した。
第二次世界大戦の戦後処理を担当、マーシャル-プランを初め、対共産圏封じ込め政策をとった。

関連頁 爆心地・原爆被災説明板
ジャワハルラール・
        ネール
1889-1964
インドの政治家。インド北部、ウッタルパルデーシュ州でバラモン教の弁護士家庭で生れる(父モティラル、母サブルプラニ)。 16歳で父と一緒に渡英、ケンブリッジ大学に留学。 1912年英国弁護士資格取得後、帰国。1916年ガンジーと出会いともにインド独立運動に参加、国民会議派を指導、英国政府より9回も逮捕・投獄される。1947年8月インド独立の際初代首相に就任。1964年まで首相。
ひとり娘のインディラ(1917-1984 )はのちの首相。
1957(昭和32)年10月9日来広、平和記念公園を訪れました。
関連頁 (平和記念公園の)記念樹・ヒマラヤスギ   二葉山平和塔(仏舎利塔)
イサム・ノグチ
Isamu Noguchi
1904-1988
米国の彫刻家。ロサンゼルス出身。コロンビア大医学部在学中彫刻に転じた。野口米次郎(1875-1947詩人)の子。
パリでブランクーシに師事、のち中国、日本で書、造園、陶芸をまなぶ。1946(昭和21)年「14人のアメリカ人展」にえらばれれ、以後造園、家具デザイン、舞台設計など幅広い分野で活躍した。作品にパリのユネスコ本部庭園などがある。
“イサム・ノグチ庭園美術館”(香川県木田郡牟礼町大字牟礼)、64歳の時に日本で構えたアトリエの地にある。
関連頁 平和大橋  西平和大橋   原爆死没者慰霊碑
やまぐちよしこ
山口淑子
(1920-   )
昭和期の女優・政治家。中国・撫順に生まれ。翊教高女(北京)卒。本名・大鷹淑子。芸名・李香蘭。
1937(昭和12)年李香蘭として映画デビュー。1939年「白蘭の夜」、1940年「支那の夜」がヒット、慰問歌手として戦地を回る。戦後は本名の山口淑子で映画出演、渡米して1951(昭和26)年「東は東」に出演、同(昭和26)年彫刻家イサム・ノグチと結婚、1956(昭和31)年離婚。1958年外交官大鷹弘と再婚。1974(昭和49)年参院選自民党から出馬連続3期当選。
アリス・ハーズ
Alice Herz
1883ー1965
(独生まれ)米国人。1965(昭和40)年3月米国のベトナム侵攻に抗議して焼身自殺。
平和基金は彼女の遺志=平和運動を通じて世界平和・民族解放・社会進歩に寄与する事を目的に1966(昭和41)年に設立されたそうです。

関連頁 炎の碑(アリスハーズ平和基金受賞記念碑)
ラダ・ビノート・パル
(ラダビノード・パール)
1886-1967
インドの国際法学者。
極東国際軍事裁判(東京裁判)の印度代表判事。この裁判で多数意見に対して国際法・英米法・証拠法に基づき被告人全員無罪の少数意見を提出した。のち国際連合司法委員会議長など歴任。
国家として行われた行為の責任を個人に負わせることは不可であるとの立場であるそうです。(これは日本無罪論として紹介しているものがあるがそれはパルの本意ではないとのこと)
※原爆ドーム1回目の保存工事{1967(S42)年}のための“原爆ドーム保存募金”に協力している。
関連頁 (平和記念公園・原爆死没者慰霊碑)碑文主語の論争  (本照寺建立)大亜細亜悲願之碑
ピウス12世
(ピオ12世)
Papa Pio XII
1876-1958
ローマ法王(在位:1939年3月2日-1958年10月9日)。本名 マリア・ジュゼッペ・ジョバンニ・エウジニオ・パチェッリ(Maria Giuseppe Giovanni Eugenio Pacelli)。
未曾有の世界大戦前後という困難な時代であり、(1933ヒトラーのナチス・ドイツと政教条約の締結などなど)さまざまな批判にさらされながらローマ法王の職務を全うした。

関連頁   世界平和記念聖堂
エドマンド・ブランデン
1896−1974
英国の詩人。ロンドン生まれ。第一次世界大戦に従軍。戦後オックスフォード大学に復学。
1924(大正13)年から3年間、東京帝国大学に英文学の教師として赴任。
戦後1947(昭和22)年〜1950(昭和25)年英国政府の文化使節として再び来日。
1948(昭和23)年冬、広島を訪れ、「HIROSHIMA ―1949年8月6日によせて―」という詩を残す。

関連頁 (中央図書館前の)エドマンド・ブランデン詩碑  (宮島平松展望台下の)エドマンド・ブランデン詩碑
ヘンリー・ムーア
1898-1986
彫刻家。英国ヨークシャー州、坑夫の子として生まれる。師範学校後、第一次世界大戦に志願兵として入隊。その後、ロンドン王立美術学校。1948年ヴェネツッア・ビエンナーレ彫刻部門で国際彫刻賞受賞。1953年サンパウロ・ビエンナーレで国際彫刻賞受賞。
関連頁 (比治山公園の)ムーアの広場・「アーチ」
アイラ・モーリス
1903.11.11-1972
仏在住米国人作家。ハーバード大学卒。
原爆被爆の実相に触れ被爆者の苦しみを知って1957(昭和32)年被爆者の精神的な安らぎと援護のため、私費を投じて夫妻で協力して南区宇品に「広島憩いの家」を開設しました。その後、運営資金を捻出するため、アメリカ・ニューヨーク市に広島ハウス財団を設立するなど、被爆者の援助に尽力されました。1967(昭和42)年広島市特別名誉市民の称号を受けました。

関連頁 (御幸橋東詰北側に設置されている)ヒロシマの忘れ得ぬ人びと’(説明板)
エディタ・モーリス
1903.3.5-1988
スウェーデン軍人の家庭に生まれる。英・ロンドンで勉学中アイラ・モリスと知合い、結婚。夫とともに「広島憩いの家」創設に尽力。1959(昭和34)年広島の被爆者に取材した小説『ヒロシマの花』をロンドン、パリ、ニューヨークで同時出版。ベストセラーになり30ヶ国で翻訳され300万部を売上げ、シュバイツァー文学賞を受賞しました。1967(昭和42)年広島市特別名誉市民の称号を受けました。
関連頁 (御幸橋東詰北側に設置されている)ヒロシマの忘れ得ぬ人びと’(説明板)
ヨハネパウロ2世
(ジョヴァンニ・パオロ2世)

Karol Josef Wojtyla
1920-2005

 ポーランドのクラークフ出身 、本名カロル・J・ボイチワ。1978年10月16日17時15分コン クラーベの結果264代法王に選出される。
1946年10月に助祭に任命され、11月に司祭。そしてロー マに留学。さらに1948年Jagiellonian大学の神学修士の学位を取得。1960年 クラークフの司教補、1963年参事代理となり1966年クラークフ司教。そして1968年任枢機卿。
日本には1981(昭和56)年2月に来訪、2月25日広島を訪れ、全世界に向けて平和アピールを発しました。
1981年5月13日トルコ人アリ・アジャが法王 を狙撃、4時間余の大手術で回復。 1986年ユダヤ教の教会をキリスト教史上初めて訪問、1993年イスラエルとバチカンの国交が樹立。また英国国教会とも 1989年ロバート・ランシー・カンタベリー大司教との会談が実現。キリスト生誕2000年を祝う「大聖年」を主宰し、分裂したキリスト教会の和解や異宗教との対話に力を入れていた。2005(平成17)年4月2日午後9時37分(日本時間3日午前4時37分)死去。

関連頁 (記念資料館東館)ローマ法王平和アピール碑  世界平和記念聖堂  YMCA原爆瓦記念柱碑
参考頁 (長崎浦上天主堂   (長崎)大浦天主堂
ヤン・レツル
Jan Letzel
1880-1925
セセッション(分離)派の建築家。チェコのナホトに生まれる。プラハ美術専門学校建築科卒。
1907(明治40)年横浜のデ・ラランデ事務所で働くため来日。
1909(明治42)年同じチェコ人の仲間と共同で設計事務所設立し独立、日本での本格的な建築活動、デザインを担当した。
宮城県の県営松島パークホテル(1913年竣工・1969年焼失)を当時の寺田祐介宮城縣知事が気にいりその後廣島縣知事になったことから廣島縣物産陳列館(1915年竣工・1945年被爆)の設計者として指名したそうです。広島県には他に宮島ホテル(1917年竣工・1952年焼失)があったそうです。

関連頁 (平和記念公園)廣島縣産業奨励館(原爆ドーム)   ヤン・レツル略歴
※参考にした資料は、主に講談社版・日本人名大辞典ですが他にも参考にした図書です。



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04.09.27設置