広島ゆかりの人たち  No.3 (明治以前の歴史分野人物)

  広島ゆかりの人たちということでバラバラと増やしてきましたが・・・
分野別というか(明治以前の)歴史分野の人たちとしてこの頁にまとめてみようと思ったのです。歴代広島藩主は独立頁を作成していましたのでそれ以外の人たちを取り上げていく予定です。
藝術分野 民間・文化分野 建築分野 政治分野 (明治以前)歴史分野 スポーツ分野
歴代広島城主     歴代広島県知事     歴代広島市長    
08.10.12更新   07.05.13再編集   04.09.26裕・記編集
ありすがわのみや
  たるひとしんのう
有栖川宮熾仁親王
1835-1895
(天保6−M28)
皇族、政治家、軍人。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の第一王子。幼称は歓宮(よしのみや)。
国事御用掛となるが、尊攘運動を支持し、禁門の変のち失脚。王政復興後新政府の総裁となり、1868(慶応4)年戊辰戦争に東征大総督(参謀に西郷隆盛をしたがえ)、1877(明治10)年西南戦争に征討総督として出征した、同(1877)年陸軍大将。1878(明治22)年参謀総長。
関連頁 厳島神社大鳥居
あんこくじえけい
安国寺恵瓊
 ?-1600
安土桃山時代の臨済宗の僧。安芸(沼田郡)の人。字(あざな)は瑶甫(ようほ)。
安芸国の竺雲等連(じくうんとうれん=禅僧)に見出され東福寺塔頭(たっちゅう)退耕庵の主となり安国寺を兼帯。1582(天正10)年豊臣秀吉の高松城攻めの和議使をつとめてから、秀吉と毛利輝元の信任をを得て寺領を与えられ、安国寺・東福寺を再興。1592(文禄元)年文禄の役には従軍僧として朝鮮に渡った。1598(慶長3)年東福寺224世の席を継ぎ、翌年退耕庵を造営し、さらに南禅寺の公帖(=禅宗五山の住持の辞令)を受ける。1600(慶長5)年関ヶ原の戦いが起こると、毛利氏とともに石田三成に応じて徳川家康と戦ったが敗れて京都・建仁寺に潜んでいるところを捕らえられ同(1600)年10月1日京都六条河原で斬首され、三条河原に梟首(きょうしゅ)された。
関連頁 新日山安国密寺 不動院   国泰寺跡   
※住持(じゅうじ)=寺の住職。
いのうただたか
伊能忠敬
1745-1818

江戸中期の測量家。通称勘解由(かげゆ)。号東河。上総国山辺郡小関村(千葉県九十九里町)に生まれる。母の死後、父の実家であった武射郡小堤の神保家に移り、18歳で下総国佐原の伊能家へ婿養子に入る。
酒造業を再興し、米の仲買いなどで産を築き、名主や村方後見として郷土のために尽くした。若いときから学問を好み、数学、地理、天文書に親しみ、1795(寛政7)年50歳の時隠居して江戸の深川黒江町(現・門前仲町)に居を構え、 幕府天文方高橋至時(当時32歳)に師事し天文学を学んだ。当時、緯度一度の里程数が定まっておらず、忠敬は長い南北距離の測量を企て、蝦夷地南東沿岸の測量を出願して官許を得た。1800(寛政12)年期待したとおりの成果を収めたが、その後全国の測量へと発展し、1816(文化13)年に終了するまでに、10次にわたり、延べ旅行日数3736日、陸上測量距離4万3708km 、方位測定回数15万回という大事業となった。細心な注意と測定点を十分に多く設ける厳密性を図った、根気と努力の勝利といえよう。忠敬の得た子午線1度の長さは28里2分(110.75km)で、現代の測定値と約1000分の1の誤差しかない。
伊能忠敬は第8回測量までの出発に当たっては、必ず江戸深川の富岡八幡に参詣して測量に旅立ったそうです。
※日本中を測量した人当然廣島にも・・・
1805(文化2)年からの第5次測量の際、1806年3月頃藝州の沿岸部測量を行っています、また西国街道の測量は第7次測量、1811(文化8)年の際に行われ、第8次測量(調査期間がもっともながかった)の際に藝州の内陸部も調査しているそうです。

関連頁 (滞在した記録があるという)西福寺  (番外:富岡八幡宮参道横の)伊能忠敬像
05.08.25追記
いのうぶだゆう
稲生武太夫
1735〜1803
江戸時代中期三次藩士。幼名・平太郎。
平太郎16歳のとき、友人と肝試しに真夜中の比熊山へ登ったところ、平太郎の屋敷に旧暦7月三十日間にわたって毎晩のようにお化けが姿を変えて出てき脅かしたが平太郎少しもひるむ事がなかったので、三界の魔王もさすがに降参し木槌を与えたという話で、この話が「稲生物怪録」や「稲生物怪録絵巻」などとして伝えられ、日本の代表的な妖怪物語の一つになっています。三人扶の侍として浅野藩に仕え、最終的には二百石となり(三次)比熊山麓に屋敷を賜りました。

関連頁 (三次市の)稲生武太夫碑(本照寺)稲生武太夫の墓(國前寺)稲生武太夫の墓
※資料によっては1732-1800というものもあります。
三次浅野藩は、1632(寛永9)年浅野長治ではじまり1720(享保5)年五代・浅野長寔没で廃藩
08.07.24編集
うえだじげやす
上田重安
号:宗箇
(そうこ)
1563-1650
武将、茶人。尾張国生まれ。通称は佐太郎、主水正。号は宗箇、是斎。
丹羽長秀(1535-1585)、明智光秀(1528-1582)に仕えた後、豊臣秀吉(1536-1598)につかえる。関が原の戦い(石田三成方についた)ののち(阿波の)蜂須賀家政(1558-1639)、ついで(紀伊の)浅野幸長(よしなが:1576-1613)にまねかれる。その後浅野家の安芸移封に伴い、広島の地に赴き、藩主別邸の縮景園等を築いた。
茶道を千利休(1522-1591)、古田織部(1543★-1615)、小堀遠州(1579-1647)にまなぶ。徳島城内庭園や紀伊粉河寺(コカワジ)の庭園などもきずいた。

関連頁 縮景園     (禅林寺)上田宗箇遺髪塚    (番外)上田宗箇流家元の屋敷
うえだこんばい
植田艮背
1651-1735
江戸初期から中期の儒者。京都出身。本姓は菅原、名は成章、字は玄節、別号は動山、因斎、淡々子。
山崎闇斎(1619★-1682儒者、神道家))にまなび、元禄11安芸広島藩につかえる。師の説を忠実にとなえたことで知られ、闇斎の「垂加草全集」を編集した。著作に「朱学体要」など。
関連頁 (多聞院)植田艮背の墓
かがわ なんびん
香川南浜
1734-1792
広島藩儒者。折衷学者。名はジン臣、字は爾公または忠夫。通称:修蔵。南濱(南浜)または蕉雨堂と号す。
幼少期より学問を好み、博覧強記で、経史諸子百家はもとより国書にも通じていました。はじめ程朱学を学び、京都遊学後は古訓をとなえ、訓詁・音義を正し、経済実学を持って人材を育成しました。1778(安永7)年再び上京。のち伊予松山藩主から招かれましたが、弟子に引き留められ禄仕を断念して大手町に家塾・修業堂を開きました。1781(天明元)年三十人扶持で広島藩儒に登用され、翌(天明2)年開設された広島藩学問所で古学を講じました。1785(天明5)年藩の学制が程朱子に統一されたため、常勤を止められ、1789(寛政元)年の学問所師弟分けの後は藩主浅野重晟に賜わった屋敷に再び修業堂を開き古学教育を行った。著書は二十数種あったといわれますが、ある日、仁保の海岸でことごとく焼き棄てたそうで、広島藩の程朱学に統一された教育方針に抗議する意味があったのではと云われています。現存の著述は「秋長夜話」「蕉雨堂酔談」の2つの随筆のみだそうです。
関連頁 (明星院)香川南浜先生碑
かとうふらく
加藤缶楽
1673-1738
藝州藩海田の庄屋。名は有益。
京都の山崎闇斎(1618-1682)の高弟子で藩儒の植田艮背(1651-1735)から神儒学を学び、特に朱子社倉法を研究して「社倉攷意(しゃそうこうい)」を著すなど、役務のかたわら終生学問に打ち込みました。
加藤缶楽の子十千{じゅうせん、名は友徳(ゆうとく)}は藩儒に登用され、延享4(1747)年矢野の香川将監(しょうげん)らと社倉法を実施に移し、その後の救恤(きゅうじつ)対策として全藩内で実施されました。
関連頁 (海田町稲荷町)加藤缶楽の墓
かにさいぞう
可児才蔵
1553-1613
(可兒才蔵藤原吉長)、武将、天文22(1553)年尾張国葉栗郡楽典郷に生れる。
永禄11年15歳の時前田利家の老臣奥村助左衛門が烏帽子親となり加冠して松田太郎左衛門に仕えた。後に福島正則の臣とり(慶長5年正則が)芸州広島藩主に移封の時来住して藩の槍術指南となり併せて軍学を講じた。特に槍術は世に吉長十字槍といわれ又の名を槍の才蔵とたたえられた(関ヶ原合戦の時は常に鎧の背に笹を挿して居て敵の首級をあげる毎に笹を挿して目標にしたので徳川家康から笹の才蔵の呼名を貰う)。豪勇の一面智徳を兼ね備え信仰に厚く恭倹実直であった。晩年は才入と号し仏門に入り済生を脳病平癒の医方に専念したと伝えられる。(吾れ死せばこの地に埋葬して墓石を建てよ死後三日内に墓背に竹が生ずるであろう首より上を病む者はその竹の葉により利益を願えば必ず治癒を得さしめん)と遺言して慶長18(1613)年11月24日60歳で亡くなる。
関連頁 才蔵寺 資料は才蔵寺境内の碑・説明文を参考にしました
きはらそうたく
木原桑宅
1816-1881
広島藩儒医。諱は籍之。字は君茅。号は桑宅、晩年は燃白老人と号す。通称は慎斎、後、慎一郎。
はじめ医者として広島藩に仕える。文久2(1862)年儒官となる、学問所教授、供頭添次席。

関連頁 (饒津神社の)木原桑宅翁之碑
こうのしょうせき
河野小石
1823-1895
幕末・維新期の広島藩士。名は徴。字は文献。通称は金蔵、小石または視庵。
12歳の時頼聿庵に入門、文久3(1863)年に藩儒となる。明治2(1869)年8月浅野長勲の侍講となる。
関連頁 (饒津神社の)河野小石先生碑
さかい こざん
阪井虎山
(坂井虎山)
1798−1850
江戸後期儒学者。広島に生まれる。東派(儒学者・とうは)の子。名は公実、諱は華。通称・百太郎、また臥虎山人、虎山などとと号す。
東派、頼春水(儒学者・頼山陽の父:1746-1816)に学ぶ。1825(文政8)年父と並んで藩学教授に抜擢される。1837(天保8)年江戸に遊学、古賀ドウ(イ同)庵、松崎慊堂(1771-1844)、佐藤一斎(1772−1859)らと交流。史論・文章にたけ、家塾百千堂を興す。著書「杞憂策」「論語講義」等。
関連頁 (本照寺)阪井虎山の墓  (饒津神社建立の)坂井虎山先生之碑
08.07.24追記
せいしん
誓真
1742-1800

(寛保2-寛政12)
江戸中期から後期の僧。俗姓は村上。伊豫(現在の愛媛県)の人。
安藝・廣島の商人であったが、天明のころ厳島に渡り光明院で修行し僧となる。神泉寺(現在は廃寺だそうです)の番僧となり、竹林庵に住んでいた。種々の公益事業を行ったことで知られている。飲料水の不足に苦しむ島民のため、各所に井戸を掘った。それらは今日『誓真釣井』とよばれている。また石段を築き、道路を石だたみにした。
宮島名産の『飯杓子』も島民の生業を与えるため、誓真さんが弁財天の琵琶の形から着想して島民に教えたものという。
寛政12年8月6日死去、59歳。
関連頁 誓真さん関連頁
たいらのきよもり
平清盛
1118-1181



清盛公像も見る
平安末期の武将。忠盛の長子。実父は白河法皇(∵母は祇園の女御の妹であって院中に召され懐妊しのちに忠盛にくだされた)。通称平大相国、法名浄海。太政大臣。 平氏の棟梁。
1129(大治4)年従五位下左兵衛佐、1146(久安2)年累進して正五位下、安芸守(宮島の厳島明神を信仰するようになり、父とともに西国への勢力を拡大)1947祇園社の間僧衆と部下の武士との乱闘事件に関係して贖(しょく)銅30斤に処せられた。1153(仁平3)年忠盛の死とともに平氏武士団の総帥となった。1156(保元1)年保元の乱には源義朝とともに後白河天皇方にたち、功によって播磨守となりつぎに大宰大弐となり、信西(藤原通憲)と結び、義朝と結ぶ藤原信頼と対立。
1159(平治1)年平治の乱で信西が倒されてからは、王朝国家の軍事力を一門で握り、以後官職は破格の勢いで進んだ。1167(仁安2)年ついに内大臣から左右大臣を経ずに従一位太政大臣となり平氏政権を樹立した。この間、妻時子の妹滋子が後白河院の後宮に入って、1161年憲仁親王(高倉天皇)を生み、その中宮に娘の徳子(建礼門院)をおくり天皇家との婚姻政策を図ってついに安徳天皇の外戚となり、巨大な勢力を築いた。9人の娘のうち長女は藤原信西の子桜町中納言成範に、盛子は関白藤原忠通の子基実に、その他近衛基通、冷泉大納言隆房修理大夫信隆らに嫁がせ摂関家との協調をはかり、さらに天台座主(ざす)明雲とも通じて、宮廷にその勢力を扶植した。 一門による官職の独占、30ヶ国の知行国、500余ヶ荘の荘園、兵庫(大輪田泊)と鎮西を根拠にした日宋貿易などを政治的・経済的基盤として六波羅政権を樹立した、しかし太政大臣に就任してほどなく病を得て辞任した。翌1168(仁安3)年出家して法号を清蓮ついで静海と称した。
1177(治承1)年鹿ヵ谷の事件を切り抜けたのち、1179(治承3)年後白河法皇を鳥羽殿に幽閉してクーデターを行ったが、以後平氏追討の動きが活発となり、1180年源頼政が法皇の第2子以仁王を奉じて挙兵すると寺院勢力もこれに呼応した。反乱を鎮圧するとともに福原遷都を断行しが、貴族階級の不満をつのらせ諸国の源氏もあいついで決起した。同年11月京都に遷都し、12月ついに法皇の院政を請い、自らの政権を放棄するとともに軍事的退勢を一挙回復しようとしたが1181(養和1)年閏2月4日64歳、熱病に倒れ世を去った。

関連頁 厳島神社  音戸の瀬戸公園  音戸大橋 
たかの ちょうえい
高野長英
1804-1850
蘭学者・蘭医。名は譲、のち長英。号は驚夢山人・幼夢山人など。陸奥国仙台藩水沢留守家家臣後藤実慶の三男。9才で父を亡くし母実家b、叔父高野玄斎(医者)の養子となる。
吉田長叔に西洋医学を学び、長崎に行きシーボルト(長崎オランダ商館付医師、1796-1866)の鳴滝塾に入り、のち江戸で開業。渡辺崋山(洋学者・南画家、1793-1841)らと尚歯会を組織。「夢物語」で幕政を批判し投獄されたが脱走。沢三伯と変名し兵書などの翻訳に携わった。のち隠れ家を襲われて自殺。
関連頁 (三滝本町の)日渉園
たけだのぶかつ
武田信賢
1420-1471
(応永27-文明3)
室町前期の武将。武田信繁の次男。文安四年に大膳大夫
永享12(1440)年兄信栄と共に一色義貫を討つ、兄が若狭守護拝命直後に没したため、家督継承。文安元(1444)年武田氏は国内寺社本所領代官職の知行を幕府から認められ、これによって半済に加えて本所方にまで支配権を及ぼすことが可能となり、武田氏の荘園支配は大きく進展することになる。応仁元(1467)年応仁の乱が勃発、武田氏は東軍(細川陣営)に属したが、各地の西軍(山名方)方分国で細川与党が行動をおこし、若狭では逆に山名方の一色氏牢人が蜂起、守護・信賢は一旦下国放逐後上洛、武田勢は西陣の大手南にあたる実相院に配され、西軍と正面から激突した。丹後守護一色義直は西軍に属したため、文明元(1469)年丹後守護職が武田氏に与えられ、武田信賢の部将逸見・粟屋らが、細川氏支援のもと丹後に討ち入った。文明3(1471)年6月2日病没。法名は大通寺殿大人宗武また光徳寺祐教教山。家督は弟国信が継いだ。
関連頁 草津の西楽寺
とくがわいえやす
徳川家康
1542-1616
江戸幕府初代将軍(1603-1605)。
三河岡崎城主松平広忠の長男。幼名竹千代、のち元信、元康、家康と改めた。はじめ今川義元、のち織田信長と結び東海に勢力を拡大、信長とともに甲斐武田氏を滅ぼす。豊臣秀吉の天下統一後はこれに協力、関八州を与えられ、1590年江戸入府。関ヶ原の戦勝を経て1603年征夷大将軍となり、江戸に開幕。将軍職を譲った後も大御所として実権を握り、大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、統一を完成した。

関連頁 広島東照宮
とくがわいえみつ
徳川家光
1604-1651
江戸幕府第三代将軍(1623-1651)。
秀忠の二男。幼名竹千代。諸法度の制定、参勤交代など諸制度を整備、キリシタンを弾圧して鎖国を断行、以後二百年余にわたる幕府の支配体制を確立した。

関連頁 広島東照宮
はやし じりゅう
林為龍
 ?-1778
江戸時代広島藩の能書家、「広島の三筆」の一人。家老上田氏の家臣。
はじめ江戸に出て林龍について六朝の王羲之(307-365)の書風を習いその奥技をきわめました。
関連頁 (国泰寺の)林為龍筆の石標 08.10.05編集
はらそうえもん
原惣右衛門

1648-1703
江戸時代前期の武士。名は元辰(もととき)。播磨(兵庫県)赤穂藩士。四十七士のひとり。
藩主浅野長矩(ながのり)の切腹処分を江戸から第2陣使者として国元赤穂にはせ知らせる。大石良雄の補佐役をつとめ、仇討ちをはたした。元禄十六年2月4日切腹。変名は和田元真、前田善蔵。
関連頁 圓隆寺(に建立の惣右衛門夫妻のお墓)   (赤穂義士木像)明星院
明星院・赤穂義士木像の中の原惣右衛門像より
ほうじょううじなお
北条氏直
1562-1591
 戦国時代の武将。氏政の子。母は武田信玄の娘(黄梅院)。
1580(天正8)年家督を継承後北条氏五代当主。豊臣秀吉(1536-1598)の小田原攻略の時、籠城数ヵ月後に開城、高野山に籠居したが一年後に病死した。
関連頁 (海蔵寺の)お墓
ほしのりょうえつ
星野良悦
1754-1802
広島堺町の町医者。範寧。
郊外に薬草採取に出かけ草叢に髑髏(どくろ)を見つけ下顎脱臼の整復術を考案した。
1791(寛政3)年4月に2体の刑死体の下げ渡しを受け、1体を蒸した後に軟部組織を除去して真骨を得て、細工職人・原田孝次に木製人骨を作らせ、翌1792年完成した。これはわが国で最初の木骨(舌骨、耳小骨を除く全骨が揃っている)であった。1798(寛政10)年木骨を江戸に持参し、杉田玄白(蘭学医1733-1817)、大槻玄沢(蘭学者1757-1827)らが絶賛して「身幹儀」と命名した。このとき大槻は「解体新書」の不備を修正した「重訂解体新書」の出版準備中で内容を星野に確認した。1800(寛政12)年2体目の木骨を作成し幕府の医学館に献上し、30両を下賜された。
資料は医学資料館館長・片岡勝子さん著「身幹儀について」他を参考にしました。
関連頁 (広島大学医学部医学資料館展示の)星野木骨のレプリカ
ほいんいんぼう
    しゅうさく

本因坊秀策
1829-1862
(文政12)-(文久2)
囲碁棋士。桑原輪三と母カメの次男として、1892年(江戸時代後期)に備後國今の因島市外浦町に生まれた。幼名を虎次郎。
5歳で母に囲碁を教えられ、6歳のときには近郷に敵が無く、7歳のとき三原城主浅野公と対局してその棋力を認められ、竹原の宝泉寺住職葆真和尚に師事した。その技の巧妙さに人々は驚き神童といったそうです。 9歳の冬に浅野公のすすめで江戸へ行き、本因坊家に入り本因坊丈和の弟子になる。11歳で初段の免許を得て翌年帰国、浅野公より5人扶持を賜り、15歳で4段の免許を得、名を秀策と改めた。17歳のときには12人扶持に増禄され、18歳の時大阪で幻庵因硯と対局し、世に言う「耳赤
ミミアカの妙手」(=因碩が形勢の良かった碁を秀策の打った妙手で形勢が一変し、動揺した因碩の耳が赤くなった)で結局秀策の3目勝ちとなった、囲碁界では有名な話だそうです。20歳で第14世本因坊跡目になり、丈和の娘花と結婚。 21歳で御城碁に初出仕した、この時から13年間御城碁において19連勝で負けることがなかった。 しかし、34歳という若さで他界した(この時代流行したコレラでと言われているようです)。
関連頁 本因坊秀策碑  本因坊秀策の墓
みなもとのよりまさ
源頼政
1104-1180
平安末期の武将。摂津多田源氏の源仲政(母、藤原友実の娘)の長男として生まれる従三位に進み出家して源三位(げんざんみ)入道と称された。
平治の乱では、平清盛につく。1180年以仁王(もちひとおう)を奉じて平氏追討のために挙兵したが宇治で敗死。宮中の鵺(ぬえ)退治などの武勇にすぐれ、和歌にも長じたことから、後世、謡曲・浄瑠璃などに脚色された。家集「源三位頼政卿集」

関連頁 鶴羽根神社
みなもとののりより
源範頼
1156?-1193
鎌倉初期の武将。義朝の六男。
遠江(とおつおうみ)蒲御厨(かばのみくりや)に成長したので蒲の冠者ともいう。
弟義経とともに源義仲を近江粟津に殺し、平家を一ノ谷・壇ノ浦に破った。義経没落後、頼朝にとりいったが伊豆修善寺で殺された。

※福蔵寺に廟が建立されています、あくまでも伝説でしょうが九州に逃げる途中?広島で遭難にあい死亡したと・・・
関連頁 福蔵寺源範頼の塚  (佐伯区の)源範頼の塚 
みやけ しゅんれい
三宅春齢
1814-1859
江戸後期の医師。芸州藩藩医。董庵(とうあん)
種痘術を学び研究、1849(嘉永2)年広島横川村で牛痘を試み成功。

関連頁 (禅林寺)三宅董庵の墓
もうりもとなり
毛利元就
1497-1571
戦国時代の武将。毛利弘元の次男。はじめ安芸猿掛城を与えられた、1516(永正13)年兄・興元没後家督・幸松丸の後見。1523(大永2)年幸松丸没後、家督を掌握。
1540(天文9)年尼子晴久の安芸進攻には領民を城内に入れて籠城、大内勢の後方支援で反撃、これを破る。1542(天文11)年から出雲遠征では大内義隆に従って出雲国に進攻、しかし大敗。1546(天文15)年家督を毛利隆元に譲る。
1551(天文20)年大内義隆への陶隆房(晴賢)謀叛には陶方に協力。1555(天文24)年厳島合戦で陶軍を地の利で勝る厳島に誘き出して大勝、晴賢を討取る。1557(弘治3)年大内義長を討って周防・長門2国を平定。この(弘治3)年三子を集めていわゆる「三矢の訓」を垂れたとされています。
1562(永禄5)年足利義輝の命で大友義鎮(宗麟)と和睦。西の脅威が無くなって、尼子氏攻略に本格的着手、その翌(永禄6)年隆元を亡くすが、1566(永禄9)年月山富田城を落とし尼子義久を降伏させ、中国地方をほぼ平定した。1571(元亀2)年郡山城に没。家督は嫡孫輝元が継承。

関連頁 毛利元就の墓所  厳島合戦(概論)
もうりたかもと
毛利 隆元
1523-1563
戦国時代の武将。毛利元就の長男。15歳の時大内義隆の人質として山口へ赴く。
1542(天文11)年出雲遠征。1546(天文15)年家督を譲られる。1555(天文24)年厳島合戦など各地を転戦。1560(永禄3)年安芸守護、1562(永禄5)年備中・長門などの守護を兼ねる。1563(永禄6)年、出雲攻略の途上、和智誠春の饗応後に安芸佐々部で急死。

関連頁 毛利隆元の墓所  厳島合戦(概論)
よします とうどう
吉益東洞
1702-1773
漢方医(古方派を代表する医者)。廣島市銀山町に生まる。名は為則。通称は周助。
その人となり剛毅にして容貌魁偉眼光炯々として人を射たといわる。親試實験を以て証せられた自信により陰陽五行五運六氣等の憶説は悉く迷妄なりと断じ「萬病一幸(すべての病気がひとつの毒に由来する)」の説とその術をもって天下の醫を匡した。貧困の極その生命危殆に瀕するも疾醫の道を志すこと堅かりしというその著「類聚方(るいじゅほう)」「方極(ほうきょく)」「方機」「醫事域間」「醫断」「薬徴(やくちょう)」等何れも當時の醫學界を震撼せしめた。
関連頁 (広島大学病院の)吉益東洞先生之碑 碑文などを参考にしました
らいしゅんすい
頼春水
1746-1816
広島藩儒。安芸国竹原出身。諱は惟完、字は千秋(また伯栗)、通称は弥太郎。頼山陽の父。妻は静子。
21歳〜36歳を大坂の町儒者として活躍、1781(天明元)年藩儒に登用され帰国、芸州藩学の程朱学(ていしゅがく)による再興につとめる。1783(天明3)年-1793(寛政5)年の帰広する以外はほとんど江戸詰。著「学統弁」「芸備孝義伝」など。

関連頁 頼春水の墓   (春水が名付けたといわれている)草摺滝
らいしずこ
頼静子
1760-1843
江戸時代中・後期の歌人。大坂出身。名は静(静子)。号は梅〈風思〉ばいし。飯岡義斎(儒医名:篠田コ安)の長女。
1779(安永8)年春水に嫁ぐ、3男1女を生んだが長男:山陽、長女のほかは早死。春水の芸藩仕官で1782(天明2)年以後は広島に住んだ。1784(天明4)年から1843(天保14)年までの日記が伝存。文政年間に四たび山陽に招かれ上方で遊んだことは有名。
小沢盧庵(ろあん、歌人1723-1801)に和歌をまなんだ。著作に「遊洛記」など。
関連頁 頼静子の墓
08.06.12更新
らいさんよう
頼山陽
1780-1832
江戸後期の儒学者・歴史家・漢詩人・書家。大坂出身。名は襄(のぼる)、字は子成、通称は久(ひさ)太郎、別号を三十六峰外史。春水の長男。
江戸に出て尾藤二洲らに学ぶも、性豪放にして遊蕩に日を送る。21歳の時、脱藩し直ちに京都から連れ戻された後は、自邸内に監禁。のち上京して書斎「山紫水明処」を営み、各地を遊歴、文人墨客と交わり、すぐれた詩文や書を遺した。その著「日本外史」は幕末期における歴史観、尊攘派に大きな影響を与えた。他に著「日本政記」「日本楽府」「山陽詩鈔」など。

関連頁 山陽文徳殿 頼山陽資料館 頼山陽歌碑  (番外)頼山陽煎餅
らいいつあん
頼聿庵
1801-1856
江戸時代後期の儒者。頼山陽の長男。安芸広島藩士。名は元協。字は承緒。通称は余一。別号に鶴年、春嶂。
父が脱藩したため祖父頼春水の跡をつぐ。1818(文政元)年藩の学問所に出仕、1831(天保2)年〜1883(天保4)年江戸詰、東行の途中山陽と会ったのが父子永の別れとなった。1841(天保12)年奥詰。1850(嘉永3)年隠居、家督を嗣子・誠軒に譲った。山陽の著作出版につとめる。書にすぐれた。遺作に「聿庵詩稿」など。
関連頁 頼聿庵の墓
08.06.06追記
らいきょうへい
頼杏坪
1756-1834
江戸中期〜後期の儒学者。安芸広島藩士。頼春水、春風の弟。名は惟柔ただなご。通称万四郎。別号に春草、杏翁など。
春水にしたがい江戸服部栗斎(りつさい、儒者1736-1800)にまなぶ。天明5年藩の儒官となり、藩主浅野斉賢の侍講などをへて三次町奉行などをつとめ民政につくす。「芸備孝義伝」「芸藩通志」など藩の編集事業にもあたった。著作に「原古編」「春草堂詩鈔」など。
関連頁 頼杏坪の墓、 (三次の)頼杏坪役宅
※参考にした資料は、主に講談社版・日本人名大辞典ですが他にも参考にした図書です。



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04.09.27設置