広島ゆかりの人たち・・・資料編
  広島ゆかりの人たちの事を調べているときにふと立ち止まることがあるのです、つまりわたしが知らないことではあるのですが、関心・興味を持った事項が出てくることがあるのです、辞書でわかることであれば辞書を引けばいいのですがそうでないものもあるのです、ここではそういう事項ですがわからぬまま時過ぎていたときに偶然にその関連の資料に出会うことがあるのです、極わずかですがそういう資料を掲載できればというのがこの頁です。
08.04.14追記    04.09.26裕・記編集
浜井信三関連資料
※1(昭和22年4月5日新地方制度に基づき)市長選

投票総数60,3270票  有効投票59,629票
山本 久雄 18,808 第1助役・元市議会議長
浜井 信三 17,714 第2助役・元市配給課長
中邑   元 9,240
仁都栗 司 6,396
川本   泉 6,317
加藤 繁信 2,255


この時の法定得票数は22,360票であった。
決選投票が決定したが得票第1位の山本が4月9日辞退し、浜井の無投票当選が確定した。

※のち昭和22年5月25日の衆院選挙に立候補した山本久雄は当選した。
※2昭和26年4月23日市長選
浜井 信三 70,665 社会党・民主党推薦
藤田   栄 65,209 自由党推薦
敬称は略しました 資料は広島市議会史を参考にしました 04.10.29裕追記
千田貞暁関係資料
※1
1880.4.6藤井県令病気で依頼免で千田貞暁発令、4.27広島着任
※2
明治17年2月
広島県が87,108円391を示し人造石考案者である服部長七と工事の請負を決定した。
※3
23,047.530 深澪埋築費
3,808.800 深澪鎖堤假堰費
49,040.559 新開築調費
3,730.374 工場築調費
72,448.417 宅地築調費
27,539.793 道路橋梁費
37,916.689 桟橋及海岸道路 雁木築調費
17,432.238 樋門及堤防増築費
30,307.740 被害修繕費
24,772.367 借入金利息外
10,098.231 委託金外
300,142.738  支払いtotal
31,626.397 寄附金
49,945.994 授産金
3,808.800 広島区費
59,365.000 国庫補助金
114,521.266 宅地売却費
35,000.000 桟橋売却費
10,31/.553 工事委託金外
304,585.101  収入total

1886年9月17日暴風により築港工事大破する。
※4
築港工事完了後発表された『宇品築港工費清算書』(上記表)で見るとわかるように築港工事としては赤字ではなく黒字であったので築港工事の赤字工事に対する左遷ではなかったと思いますが、。
千田知事が築港工事不足金として第2回国庫補助申請をした35,603円(補助金は許可されたが)に対し、『国庫補助を仰ぐ築港計画は粗漏なりとして罰棒・年棒十二分の一を科せられた』ことによるのではないのでしょうか。
敬称は略しました 宇品築港物語 竹島浅吉氏著 平成7年溪水社発行を参考にしました 03.07.29裕追記
広島の大火
まだ調べきってはいませんので参考にしかなりません・・・・・05.05.18裕記編集
1733 享保18年 6月18日 (稲荷町)稲生神社
1758 宝暦8年 4月3日 縮景園   安楽寺
午後4時ごろ白神組五丁目(現・大手町3丁目)から出火し、折からの烈風で煽られ火の手は、尾道町(現・大手町2丁目)、塩谷町(同)、革屋町(現・本通)、紙屋町、猿楽町(現・大手町1丁目)袋町、西魚屋町(同)、鉄砲屋町(同)、平田屋町(本通)、立町、研屋町(現・紙屋町)、播磨屋町(現・本通)、車屋町(現・紙屋町)、、東魚屋町(現・立町)を焼き払い、城内の一部をも焦がし、八丁堀、鉄砲町、上流川町(現・幟町)、幟町などを燃やし、猛烈な火勢はさらに東白島町、白島九軒町から神田川(現・京橋川)対岸の牛田村(現・牛田町)にまで広がりました。このとき縮景園も火魔に襲われ建物の多くが焼失したそうです。
※資料は広島県教育委員会発行「縮景園史」を参考にしました。  08.04.14追記
参考頁: (当時とは違いますが)明治20年当時の広島の町
1945 昭和20年 8月6日 原爆による惨禍があまりにも強烈で多くの方々が直接的に亡くなりましたが、
原爆炸裂時の高温の熱線により市内中心部の家屋が自然発火、火災が起り終日空を焦がし、多くの方々が(火災によっても)亡くなりました。
参考頁: おじさんの「原爆記」
阿曾沼(あそぬま)氏
  安芸国世能荘の地頭。藤原姓足利氏の一流で足利有綱の三男広綱が祖。下野国(栃木県)阿曾沼郷出身。
広綱の子親綱が承久の変の功で世能荘の地頭職に任ぜられた。
鎌倉時代は家臣野村氏が代官として同荘支配にあたっていたが南北朝時代に入って一族の一部が安芸国に移り足利方として活躍している。
室町時代には大内氏と結び、弘秀の代には東西条に計370貫の所領をもち、開田荘代官職も得ていた。
戦国時代阿曽沼氏の勢力は海田、船越に及び鳥籠(とこの)山城を本城、日浦山城を属城としていた。
1523(大永3)年尼子方に寝返ったため、1527(大永7)年大内軍武将陶興房、毛利元就らの大軍に本拠・鳥籠城を囲まれたが家臣野村木工允(もくのじょう)が切腹して許された。陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を倒したあとしばらく陶方として行動していたが1553(天文22)年ごろ一時陶・毛利方を離れた。しかし厳島合戦までに毛利氏に帰順しそののち約4800石を領する有力国衆として重きをなした。慶長の役※には元秀が参陣し朝鮮で死んだ。元秀の子元郷のとき毛利氏に従って萩に移る。
厳島の戦い(いつくしまのたたかい)
  1555年(天文24)年10月1日、主君大内義隆を殺して領国を奪った陶晴賢を毛利元就が厳島に敗死させた戦い。
毛利氏発展の基となる。
関連頁: 厳島合戦関連頁
文禄・慶長の役
  1592(文禄元)年4月の釜山浦上陸をもって開始された豊臣政権による朝鮮侵略戦争。日本軍は緒戦で朝鮮正規軍を破ったが、朝鮮民衆の義兵闘争や明の救援軍の反撃にあい、翌(1593)年、明との間に停戦協定が締結された。しかし、それは日明両国間の和平条件の齟齬(そご)のために破れ、1597(慶長2)年再開された戦闘は、翌(1598)年8月の秀吉の死に至るまで続いた。
この侵略は朝鮮の国土・民衆に甚大な被害を与えたのみならず、過酷な軍役・徴発によって豊臣政権の基盤もまた動揺する結果となった。
朝鮮側では壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱と呼んでいる。明では万暦朝鮮の役と呼ばれた。
関連頁: (韓国)仏国寺



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